2005年10月25日火曜日

病院は究極のサービス業-2

病院はもちろんサービス業である。患者の病気を治すというサービスを提供することでその対価を得ているのは昔から変わっていないから、昔から病院はサービス業なのだが、これまでは病院の当事者たちにその意識が薄弱だったことも事実である。そして、その主たる理由は客である患者とサービス提供者である病院当事者の立場に圧倒的な力関係の差が存在して居るからである。すなわち、病気を直してもらいたい患者はお医者様にすがりたい程である。お医者様の態度がむかつくほど横柄で、不親切でも、いまは我慢して「この痛みを止めて下さい」と願っている。その患者を見下ろすお医者様と看護師様から見ると、一人の患者はone of themだ。「こんなの日常茶飯事よ。もっと痛みがひどくても良く我慢できる患者もいるというのに大げさな痛がりようだこと」とウンザリだ。こうして、圧倒的に不利な立場の患者と、圧倒的に有利な立場のお医者様・看護師様の構図が何百年と続いてきたのだ。以前は会計係などのスタッフまでもが患者に横柄な言葉を使っていたものだ。最近は病院間の競争が激化して、サービスの向上が進みつつあり、まずスタッフ部門はかなりの程度に患者に対する態度が改善されてきている。病院の駐車場の看板も、以前の「患者用駐車場」から「患者様用駐車場」に修正する病院も多くなってきた。

しかし、圧倒的に有利な立場であり続けるドクターたちはまだまだお山の大将的センスが抜けきらない。施術という言葉が有るとおり医療は施しであり、施す側(上)と施される側(下)には大きな谷があると思っている。こういう医者は「高名な私が執刀して上げましょう」と、手術をして多額の心付けを受け取ることを憚らない。

さて、「明確にサービス業だという認識がないと、病院は最早やっていけませんよ」というのが本校での私のメッセージである。その理由はこうだ。予防医学が進歩すると共に病院に足を運ぶ客層が変わってきた。人間ドックはもちろんだが、最近は通常の人間ドックにPET/CTを組み合わせたガン検査など付加価値の高い、従って高額料金で健康保険の対象外の検査が病院の高収益事業としてクローズアップされ、多くの病院がそのサービスに力を入れている。

が、問題は従来の「強い立場」に固執するドクターや看護師という病院側の受け入れ態勢である。何の自覚症状もない健常者(少なくとも本人はそう思っている)がその健康を維持するために様々の検査を受けるために病院を訪れる場合は自分が弱い立場だとは思っていない。病院に来る直前までは部下たちにガミガミ言っていた社長もいるだろうし、医者が医学博士なら客は工学博士でMBAなんてうるさい奴もいるだろう。そういう客に従来の横柄な態度では商売にならない。

実は先日、ある大学病院でPET検診を受けた。PET検診は鹿児島の厚地先生の病院で受けることに決めているのだが、この大学病院のPET導入計画に際して、16億円の出資会社を紹介してくれと言う依頼を受け、紹介した会社が出資を決めて検査病棟が竣工し、サービス開始に際して、紹介の御礼に無料にてPET検診を致しますということで遠いところだが検査を受けに行って来た。ところが、検査が終わると、「検査結果の説明のために2週間後に再来院して下さい」と来た。「えっ、PETの場合は検査が終わった今の段階で結果が出ているはずですが。それを2週間後に再来院せよとは、しかも都内からこんなに遠いところへ又来いというのはおかしいのではないですか」と看護師にクレームを付けると「規則ですから」と取り合わない。上述の厚地病院では検査後直ちに我々夫婦を診察室に呼び入れて検査結果の説明があったものだ。それと比べても納得できないし、出資者を紹介したという縁もあるので他人事とは思えず、「センターの責任者に会わして欲しい」と申し入れた。どうも看護師も同じ問題意識があったのではないかと思える節があるのだが、とにかく看護師が嫌がるセンター長を引っ張り出してきたと感じだった。センター長のドクターは言下に「PET検査では患者さんの体内にポジトロンという放射線物質を注入して居るので、検査後直ぐに対面して検査結果を説明するのでは患者の身体から放射される放射線に医者が被爆して危険ですから後日の来院をルールとしております」という。

さて、みなさんはどう思いますか、西岡の反論は次回に譲ります。

2005年10月14日金曜日

病院は究極のサービス業-1

人間ドックに入ったついでに、念のために頚部のMRI検査を受けた。経験のある方たちはご存じの通り、MRI検査はベッドにベルトで固定され、検査装置の中の狭い円筒状のスペースに送り込まれる。「閉所恐怖症の方は申し出て下さい」との注意書きが検査室に張り出されているくらい検査装置の中のスペースは狭くて、顔の前に装置の壁が迫り、しかも頭のてっぺん付近でカンカンカン、キンキンキンと高く不快な音が鳴り続けるという最悪の環境である。重病人が移動ベッドで運び込まれて無意識の中で検査を受ける状況ならいざ知らず、健康な人間が念のために検査を受けるという状況では最悪の環境なのだ。健常者対象の検査装置としては到底受け入れられない未完成の装置である。

その日、私を担当した若い検査技師は「30分弱で終了します。絶対に動かないようにお願いします」と言って、ベルトで私の身体をベッドに固定して隣のモニター室に消えた。さあ、それからの30分が大変だった。私は別に閉所恐怖症というわけではないが、カンカンカン、キンキンキンという不快な音の絶えない、しかも狭い狭い密室にベルトで固定されているのである。しかも、「絶対に動かないで」と言われている。いつもは何ともない鼻の奥で、鼻汁とまでは言わないが実態のない何かがつかえるような感じがして、鼻をクンクンといわしたくなるような衝動に駆られる。息苦しくもなる。次に鼻の頭が痒くなってきた。掻けないとなると余計に無性に痒くなる。あー、もうダメだ。ギブアップして「止めてくれー」と叫ぼうか? いや、男の子じゃないか、もうちょっと頑張ってみよう。でも、あとどのくらい辛抱したらいいの? 30分って言っていたが今はもうどのくらい経過したのだろう? 10分は経っているよ。いやー、いいところ5分じゃない。だとしたら、あと25分も? じゃダメだ。ギブアップかなー。他の人は良く辛抱できるのだなー? よし、他のことを一生懸命考えよう。ゴルフだ。太平洋クラブ御殿場の18ホールを想像する。ここは距離のあるパー5。ボクの腕では2オンは不可能。だと言って2打を正面にレイアップすると池の前は左足下がりで難しい。カンカンカン、キンキンキン、カンカンカン、あーダメだ。現実に呼び戻された。あとどのくらい辛抱したらいいの? お母さーん、助けてー、、、、、、、、

30分は長い。この環境で30分もじっとするのは残酷だ。そして、最大の問題点は時間の経過が不明なことだ。もし検査技師が、「はい、5分経過しました。あと25分です。頑張って下さい」、「はーい、10分経過しましたよ。あと20分でーす」、「20分経過しました。もう少しですからねー」と言うようにときどき時間の経過を教えてくれたら「よし、あと20分か、我慢しよう」、「よし、あと10分か、辛抱できるぞ、もう大丈夫だ」と安心して頑張れるというモノである。それが検査技師はモニター室に消えたまま何もしてくれない。被験者の心の葛藤など理解していないのだ。30分弱経過して閉所から救出されたときには「参ったー」だった。そこで、ベルトを外してくれた検査技師に、「貴方自身はこの検査を受けたことがありますか?」と質問してみた。「いえっ、ありませんがー、何か?」。そこで、上に述べた体験をお話しし、「時間の経過を教えて貰えたら被験者は大変大変助かるのですよ。私だけじゃないと思います。それをするのに何の設備も要らない、材料費も余計な人件費も掛からない。ただ、検査技師さんの優しい心遣いだけで出来ます。次からやってごらんになりませんか?」と聞いてみた。その検査技師さんはおとなしそうな人で、「そうですね、今まで気にしたことがなかったのですがー、考えます」と率直に受け止めてくれた。実行するかどうかは疑わしいが。

もし、病院がサービス業であるという共通認識が病院スタッフに浸透していたら、上のような心使い、気遣いは職員に徹底していて当然だ。スタッフたちが自分たちの接し方一つで患者様(ボクは患者様ではなく、お客様だったのだが)を快適にする方法を日常活動で探し、改善する活動が日々定着していなければならないのだ。
(次回に続く)