2006年6月30日金曜日

最近の歩行者

車を運転していたり、タクシーに乗っていて最近気になるのは、歩行者のマナーの変化だ。自分が若かった頃は、道路を横断するときには、歩行者用信号が青でも駆け足気味に渡ったモノである。誰もが、そうしていたような記憶がある。たとえ歩行者用信号が青でも、「車が左折をしたくてじっと待っているから急いであげないと!」という他人への配慮があった。最近は、歩行者の態度がでかい、というよりも無神経すぎる。携帯電話でしゃべりながら下を向いてグズグズ横断していく歩行者が多いし、歩行者優先を良いことに信号が赤に変わっているのに無理に渡ろうとする歩行者も多い。迷惑をしている車は眼中にはないらしい。

日本の信号機は一般的に、歩行者の横断と同方向への車両の直進、および左折が同じ信号で行われる。しかも、車両の左折に与えられる時間は歩行者用信号が青から黄、赤と変わってからほんのわずかな時間であるから、歩行者がノロノロすると車両が左折する暇が無くなる。横断者の混み合う交差点では車両の方が左折できずに大変だ。止む無く車両用信号が赤になってしまってから無理して突っ込んで来て左折していく車両も多い。

もう対策が必要である。こういう交差点は原則すべてスクランブル方式にするしかないのではないかと思うが、警察はいつまでこういう状況を放置しておくのだろう。何かウルトラCの対策を準備しているのか? 単なる無思慮で放置しているのか?

2006年6月28日水曜日

次官の代読

ある大きなイベントで基調講演を仰せつかったときのこと。基調講演の前にはお定まりのご挨拶がある。この日は協賛するお役所もリキが入っているらしく省の事務次官が挨拶をした。普通は局長か部長、または課長の挨拶が多いのに、この時は事務次官が自分で舞台に立った。次官は段上でおもむろに胸のポケットから封筒に入った挨拶状を取り出し、読み上げて、「xx省大臣yy、代読事務次官zz」と読み終わって一礼し、退場した。

私の基調講演後、二人で控え室に入ったとき、「よく分かる面白いお話でした。今回の運動の趣旨が伝わって助かります」と丁寧に挨拶された。「いえいえ、お役に立って何よりです」とこちらも型通り挨拶した後、「ところで、次官」と思い切って、切り出した。「事務次官は会社で言えば社長です。大臣のご挨拶を代読などされずに、ご自分のお考えを聞かせて頂いた方が我々は嬉しいですよ」と率直に、直裁にお話した。次官は、ちょっと考えて、「なるほどー! そうですねー! 今まで習慣のように部下の作った文章を読んでいましたが、なるほど、自分の考えを自分の名前でお話すべきですねー。これからそうします! 西岡さん、ありがとうございます」ときっぱりと言われた。「是非お願いします」と一礼したが、この次官、なかなかの人である。

2006年6月19日月曜日

西岡郁夫の起業家インタビュー 第4回 『杉本 哲哉さん』

知られざる杉本さんの発見


――― 小学生時代 ―――

西岡 今日は、「へぇー、杉本さんにそんな一面もあったのか」というようなお話をうかがわせてください。まずは、子供の頃の話から。杉本さんってどんなお子さんでしたか?
杉本 小学生の頃が、一番自分らしさを表現できていたような気がしますね。体はそれほど大きくなかったのですが、ワンパクで。周りにいる友たちを動員して、先生に談判したりね。家庭訪問の時に先生から「この子に悪いことを考えさせたら、とんでもない大人になりますよ」なんて言われて、母親がすごく落ち込んでいたのを覚えています。
西岡 なぜ、先生はそんなことを言ったんでしょうね。
杉本 鼻持ちならない生徒だったんでしょうね。従順に先生の言うことを聞くタイプじゃなかったし、かといって、指摘するような落ち度があるわけでもない。
西岡 先生にとって、扱いの難しい子供だったわけだ。 
杉本 きっとそうだったと思います。そのころ住んでいたのは昭和40年前後に開発された横浜郊外にあるニュータウンで、私が昭和42年生まれ、そこに引っ越してきたのが45年くらい。通っていた小学校もそのころ急膨張する街に建設された学校で、2000人くらいの生徒がいましたね。1学年6クラスで、1クラス50人くらいはいたでしょうか。ところが、当時は「スクールウォーズ」などのテレビ番組が流行っていたほど、校内暴力が大問題になっていた頃です。心配した両親の配慮で中学から私学に進みました。
西岡 成績はいいほうだった?
杉本 そうですね。それも先生にとって嫌味だったのかもしれません。
西岡 成績のいい子って、普通は「幕府の犬」というか、先生に好かれる良い子じゃない?
杉本 僕は在野でしたね。森蘭丸のように先生の横にピタッという感じではなかったです。むしろ、友だちの先頭に立ってグワァーと皆を動かすほうが快感で楽しかったですね。
西岡 女の子にもモテたでしょう?
杉本 うーん…そうですね、小柄だったけど、人気はあったんじゃないかな。言うことが面白かったから、人気投票で学級委員に選ばれるようなところがありました。
西岡 僕と似ていますねぇ。
杉本 僭越ですが、西岡さんとは同じニオイを感じます(笑)。


西岡 僕も良い子でね、小学6年生の時には全校投票で選ばれて生徒会長をやっていました。朝礼では先生たちが出てくる前に、朝礼台に立って「気をつけー。前にならえー」ってやっていましたよ。今考えると嫌な子だけどね。

――― 中・高校生時代 ―――

杉本 西岡さんはずっと優秀な生徒だったのでしょうね。僕の場合はそれ以降、流転というか、どんどん落ちていったから。
西岡 それ、どういう意味?
杉本 父親が、西岡さんと同じ阪大工学部卒の技術者でして、いすゞ自動車に勤めていた、とても几帳面な男でした。僕の中学受験の時なんか、参考書を買ってきて勉強のスケジュールをつくってくれたんですよ。「今日は何ページから、何ページまでやりなさい」と予定を立てて、会社から帰ると答合わせまでしてくれました。だから勉強でもあまり苦労はしなかったんです。で、高校は神奈川にある聖光学院へ入りました。私は23期生でしたが、3期生に小田和正さんがいた学校です。彼は、東北大学の建築学科、早稲田の大学院と進んで、歌手になりましたけど。ですから、大学も先輩ですね(笑)。
西岡 僕、オフコースが大好きで、彼のコンサートにも行ったことありますよ。
杉本 えっ、本当ですか?
西岡 当時、海外出張の時にはオフコースとイルカとハイファイセットのテープを持って行ってベッドで聞いていました。で、そこは優秀な学校だったの?
杉本 一応、神奈川では、栄光学園、慶応の普通部と並ぶ男子進学校でしたね。
西岡 男子校か! 男女共学じゃなかったのは、マズかったですねぇ。
杉本 そうなんですよ(笑)。それにミッション系の学校だったので、ミサがあったり、校則が厳しかったり、校長がフランス系カナダ人だったりして、無宗教の僕にはカルチャーショックでした。異文化に触れることができるのはいいのですが、公立の学校で荒波に揉まれたほうが良かったかもしれませんね。一方で、住んだ街も小学校も中学/高校も比較的新しいところにいたので、束縛されずに自由闊達に育ったのは幸せでした。自分たちが「こうしていこう」と提案すれば、新しいことのできる余地があったように思います。高校2年の時に母親がガンで亡くなりました。それからの我が家は父親と私と弟のむさくるしい男所帯。まぁ、それが言い訳にはなりませんが、大学入試に失敗して、浪人したわけです。
西岡 食事の支度や洗濯は誰がやったの?
杉本 一応、家事は男3人で分担してました。父親は、ちょうど46、47歳の忙しい盛りでしたから、会社から疲れて帰ってきて、僕たちがダラダラしながらテレビを見ていて、ろくに洗濯もしない、ゴハンも食べないなど、苦労したと思います。その頃からでしょうか。映画監督になりたいと思うようになりました。
西岡 へぇー、どうして映画監督なの?
杉本 中・高校6年間でクラブはバスケットをやっていたのですが、趣味で8ミリ映画制作をやっていました。自分で脚本書いて、映画を撮っていたんですよ。
西岡 仲間と一緒に?
杉本 そう。脚本を書いて、見よう見まねで。役者も照明も編集も、全部自分たちでやっていました。ところが男子校だから女優がいない。だから、近くの女子校に行っては、「映画を撮るんだけど、この役やってくれない?」とかスカウトしては、手伝ってもらってました。
西岡 学校の先生は知っていたの?
杉本 知っていましたよ。毎年1回、学園祭の時に学校の大きなホールを借り切って、自分たちが撮った映画を上映させてもらうのが楽しみで。中学2年の時から高校2年まで4本ぐらい作りました。フィルムを買ったり、現像したり、編集したりするのにお金がかかる。それでも、1年がかりで案を練って「次は、どんなストーリーにしようか」、「キャスティングはどうしようか」なんて考えながら、自分たちでロケハンして、撮影して……。いやぁ、実にハマりましたねぇ。で、出版社の「ぴあ」が主催していた「ぴあ・フィルムフェスティバル(PFF)」にノミネートされるのが我々の目標だったんです。それが載ったんですよ。ぴあに我々の作品が!
西岡 監督は?
杉本 私です。出演はしなかったけど、それ以外は、台本を書くところから監督、撮影、編集、お金の管理まで全部やりました。
西岡 メンバーは何人いたの?
杉本 15人くらいだったかなぁ。学校のクラブではありませんでしたが、楽しかったですねぇ。その楽しさと反比例するように、まぁまぁだった成績もドンドン落ちていきました(笑)。
西岡 なぜ、その道を突き進まなかったの?杉本 浪人時代は、将来映画監督になるために芸術系の大学へ行きたいと真剣に思っていました。どんな大学へ行こうが才能さえあれば監督になれるのでしょうけど、当時はそういう学校に入らないと監督にはなれない、と思っていたんです。だから、美術大学とか、日大の芸術学部を受けようと思って相談したら、真面目一方の技術者であった父に悲しそうな顔をされました。ところがある時、キネマ旬報などの映画雑誌を読んでいるうちに、早稲田大学出身の監督や俳優が多いことを知ったんです。それで、「早稲田に行く」と言って父のOKをもらいました。


――― 大学生時代 ―――

西岡 大学では何を専攻されたのですか?
杉本 社会科学部という、早稲田大学の中でも新しい学部でした。政治から経済、法律、商学など、いろいろなことを学びましたね。まぁ、中途半端といえば中途半端なんでしょうけれど、そこで学んだからこそ、ものごとを分け隔てなく考えられるようになったと思います。「国の税収がこう変わると経済がこうなって、人の気持ちが荒むから社会はこうなる……」なんて社会の仕組みを学びました。新しい学部だったので、そこに集まってくる学生も、これまた自由な考えの人が多くて「こうしなくちゃいけない」なんてアタマの人は少なかった。面白かったですよ。
西岡 大学生時代は何をやっていたの?
杉本 大学では、新聞サークルで”同人誌”の制作をずっとやってました。今度は、「書く」方にいったんですね。早稲田大学には年間16万人の受験生が全国から押し寄せて来ていたのですが、彼らに、『早稲田魂』という、学生の視点から早稲田大学を紹介する受験生向け同人誌をつくって大隈講堂の前で売っていたのです。10日間で200~300万円くらいの売り上げになるんですよ。で、その資金を元手に今度は年4回、留学生向け英字新聞を発行する、といった活動スタイルでした。そのサークル自体は、もともと「ザ・ワセダ・ガーディアン」という50年以上の歴史があって、アメリカやイギリス、シンガポールなどの大学生とニューズレターで情報交換をしていました。けれど、それは全く売れなくて。活動資金がショートするから、資金稼ぎのために同人誌をやっていたというわけです。3年生の時にサークルの幹事長になって、100人くらいのメンバーをまとめていました。つまり、当時から上場直後の当社従業員より多いメンバーをまとめていたことになりますね。だから、従業員の数が多いから、まとめきれないなどとは思ったことはありません。
西岡 どんな大学生活でしたか?
杉本 そうですね。距離的には横浜の自宅からも通えたのですが、「いつまでも親元で甘えていずに、出て行け」と父親に言われて、大学から徒歩5分の場所にボロアパートを借りました。家賃は月4万円、風呂無しだけど通学時間もかからないし、とても気に入って4年間ずっとそこで暮らしていました。アルバイトはほとんどしませんでしたね。あまりお金を使うこともなかったので、親の仕送りで地味に生活してました。アルバイトをしなかったのは、グータラに聞こえるかも知れませんが、社会に出たら、死ぬほど働こうと決めていたんです。学生時代の4年間は大人の真似して働くよりも勉強をしっかりやって、友だちをたくさんつくって、大学生らしい生活を謳歌しようと考えていました。
西岡 へぇー。いい話ですねぇー。学生は惰眠・惰食を貪るのみと思っていたのに、そんな学生もいるのですね。
杉本 もちろん、たまに資金ショートしそうになると交通量調査やウェイターなんかのバイトを単発でしていましたよ。そういえば、当時から新聞はよく読んでいました。お金に余裕がないのに、朝日新聞をとって(笑)、とにかく新聞を読むのが楽しくてしょうがなかったんですよ。僕は昔から歴史が苦手でしてね、大学受験の時も社会は政治経済を選択しました。
西岡 普通は日本史か、世界史か、あっても地理ですよね。
杉本 そもそも政治経済なんて、高校の授業にまともにありませんでしたから。高校では日本史を選択したのですが、全く頭に入って来ない。徳川慶喜まで15代将軍を暗記して、スラスラ言えるヤツが不思議でしょうがなかった。けれど、近現代史は得意で、明治維新とか、大隈重信とか、板垣退助とか、坂本龍馬とか、その辺りのことなら好きですぐに頭に入った。それを活かせる政治経済は面白かったですね。憲法前文や9条、11条はスラスラ言えました。マネーローンダリングやマネーサプライがどうとか、日銀の役割や、なぜ外貨準備高が重要なのかとか。いやぁ、「これは役立つぞ!」と勉強が楽しかったですね!
西岡 高校・大学の勉強をそれほど「面白い」と言える人は少ないですよ。
杉本 勉強としてではなく、趣味としてスーッと頭に入って来たんですよ。だから、新聞を読んでいても楽しくてしょうがなかった。「こんどの選挙で自民党が大きく議席を減らしたら金利はこうなる」とかね。朝起きるとパジャマ姿でポストまで新聞を取りに行って、パンをかじりながら端から端まで読んでいました。特に時事問題には強かったですね。ゴルバチョフ、ペレストロイカからロシアの崩壊。などなど……。当時はインターネットなんてありませんでしたから、他の新聞を読むために大学の図書館に通い詰めていました。そんな勢いで、卒業したら「ジャーナリスト」になろうかと思ったんです。日経新聞社や日経BP社、雑誌社などに就職活動をしました。


――― 就職活動 ―――

杉本 出版社を回る活動の一環で、リクルートにも行った。一般の出版社とは毛色が違いますが。人事の人に気に入られてね。そういえば、リクルートには筆記試験がなかったんですよ。もちろん、他社の入社試験には筆記試験があって、「光ゲンジのメンバーは何人か?」なんて妙な時事問題もありましたね。
西岡 なんや、それ!?
杉本 でしょう? ほかにも、フランスの首相の名前をフルネームで書きなさいとか、漫画家の蛭子能収さんの名前に読み仮名をふりなさいとか。要は、ミーハー度を計るんでしょうね。まぁ、全問正解でなくてもいいんでしょうけれど。一方、リクルートは人間性を掘り下げることを重視した採用姿勢の会社であることがわかったんです。まさに西岡さんのように、「この頃、君は何を一生懸命やっていたの?」とか、「5年後は何をしているの?」、「夢は?」なんていうふうにいろいろ聞かれました。話していて楽しかったですね。で、少しずつリクルートに惹かれていったんです。そんなこんなしているうちに、リクルートの人事の人から「杉本君、どこの会社に行きたいの?」って聞かれて。「マスコミに行こうと思います」と言ったら、「君は、何かコトを起こした人を取材する人間になりたいの? それともあなた自身がコトを起こしたいの?」と聞くわけです。
西岡 へぇー、うまいねぇー。まさに、琴線に触れる質問だね。誰ですか、そんなこと言ったのは。
杉本 えーっと、もしかしたら、当時僕の採用担当は、現リンクアンドモチベーションの小笹さんだったので彼かもしれない。で、そんなこと言われたら、「取材しに行く人間になりたいです」なんて格好悪くて言えないじゃないですか。だから、つい「自分で何かやりたい」と答えたら、「じゃぁ、うちでやったら!」って、で後は、握手~って感じ。まぁ、迷いはなかったですけれどね。父親に話すと、「そういう虚業の世界のことはよくわからん。日本は製造業で成り立ってるんだ!」と言われて。
西岡 製造業なんかに行かなくて良かったじゃないですか。
杉本 うちの父親は「東京と大阪を走る新幹線は、製造業のビジネスマンでもっている」なんて思想の持ち主でした。リクルートに就職することを決めたら、「じゃあ俺の見えないところでやってくれ。もう知らん!」と家に帰れなくなって、仕方がないから、会社の寮に入れてもらうことにしました(笑)。


――― リクルート時代 ―――

西岡 それにしても、杉本さんのお父さんは背筋がシャンとした偉い方ですよね。
杉本 えぇ、「筋は通せ」ということだと思います。それで、大学近くのアパートを出てリクルートでの寮生活を始めたわけです。
西岡 大学でアパート生活とは全く違ったでしょう? 寮って何かとうるさいじゃない。
杉本 うるさいですよね。トイレも風呂も、食事も共同ですし、強烈な先輩が幅を利かせているし、厳しい寮長が居てけっこう体育会系のノリでした。食事なんか予約していても、夜遅く帰ると「トウショク」されているんですよ。
西岡 トウショク?
杉本 盗食、誰かに食われちゃうんです。そんなときは暗い夜道をとぼとぼ歩いてデニーズに行くのです。けれど、寮にはエンジニアとか、経理や総務とか、関連企業に出向してる人とか、いろいろな社員がいましたからね。私は営業部に配属されたのですが、風呂に入りながらいろんな話を聞けましたから、「寮っていいところだなぁ」と思っていましたよ。
西岡 杉本さんは与えられた環境を上手に利用する天賦の才能がありますねぇ。
杉本 そうですね。時間に厳しかったり、ややこしいこともあったりしましたけど、いろいろな部署の先輩や後輩と交流できて楽しく利用させてもらいました。お金も溜まりましたし(笑)。
西岡 ところで、なんで寮を出たの?
杉本 結婚したからです。27歳の時に結婚して、寮を出なければならなくなりました。
西岡 奥様は同じリクルートの人ですか?
杉本 そう、同期でした。結婚後は社宅で暮らしていましたから、永らく会社のお世話になったことになります。
西岡 リクルートっていい会社ですよね。
杉本 ええ。私にとっては、本当にいい会社でした。
西岡 けれど、独立しようと思ったのはなぜ?
杉本 採用試験の時のことがあったので、「マスコミを選ばず、リクルートに入った以上は、何か事業を起こさなければ意味がない」と思っていたんです。そうでなければ、内定を辞退した新聞・雑誌社にも申し訳ないと。だから、いつかは日経新聞に載るような事業を起こすための術を徹底的に身につけよう、と決めていました。リクルートは1日に10億円も売り上げる会社ですが、怠けている人も、休んでいる人も一杯居ます。それなのに、なぜそんなに稼げるのか不思議でしょうがありませんでした。大企業というものがどんな構造になっているのか知りたかったですね。それで今度は、お金の流れについて知りたくなって、自己申告で異動希望を出して財務部に入れてもらいました。借入金を管理するチームで、当時はリクナビなどの新規事業をつくるために莫大なシステム投資が必要な頃でしたから、銀行から150億円を借りるための金利交渉などをしているチームでした。学生時代に覚えた政治経済とか、ユーロ対円とかの知識がすごく役に立ちました。
西岡 へぇ。
杉本 財務部の先輩のお姉さま方は電卓を叩くのも、帳簿をつけるのも速いけど、「やっぱり借入金の管理は機械にさせたほうがいいな」と思って、担当役員に、「借入金を管理できるシステムをつくりたい」って言ったんです。そうしたら「君は、自分が細かい仕事をするのが苦手だから、そんなことを言ってるんじゃない?」と。で、「そうじゃない。今6人でやっている仕事を1人でできるようにします」と言ったら、「じゃぁ、予算をつけてやる」と仕事をやり易いようにボクを実務から外してくれたんですよね。入社2,3年目の僕に任せてくれるなんて立派な人でしょう。当時の財務担当の役員で山路さんという方です。その後、常勤監査役をやられて、つい先日、退任されたんですけれどね。とても感謝しています。それで、さくら情報システムから、アクセスを使った借入金の管理システムを買ってきて、リクルート用にカスタマイズするための作業を始めました。けれど、私にはシステムのプロではないので、全社システム化推進室という部門からエンジニアをつけてもらいました。その時一緒に財務のシステム化を手伝ってくれたのが、今マクロミルでシステム担当の役員をしている柴田です。プロジェクト開始の半年後にはシステムも出来て、膨大な数の借入金の管理が二人でできるようになりました。すると山路さんに、「今度はインターネットに関連した新しい部署ができる。このタイミングで異動しては、どうか」と誘われて。「ぜひ、新しい事業の立ち上げに参加しよう」と決意しました。異動先は新規事業開発室という部署で。インターネットに限らず、新たな情報誌をつくったり、新規事業を企画するところでした。ホットペッパーやゼクシィといった雑誌はそこで開発されたものです。
西岡 江幡さんのオールアバウトも?
杉本 そうですね。南場さんのDNAもそうですが、いろいろな出資案件や他社からの提携など持ち込み案件を受け付ける窓口で、金融の知識も役に立つし、事業立案や会社設立のために必要な知識も身に付くし、リクルート社内の役員とのパイプもできますからね。本当にいい経験をさせてもらったと思います。
西岡 最近のリクルートはコンサバな会社になりましたね。
杉本 当時は、失うものがないので怖いもの知らずでした。その頃、種を植えたものが今、少しずつ花開き始めています。けれど、同時にユニークな人がどんどん外に出ていってしまいましたね。ただ、私にとっては日々勉強することが多くて、面白かったですよ。
西岡 杉本さんにとっては、とてもいい会社でしたね。
杉本 リクルートも当時は世間相場から言えば新しいカルチャーの会社だったでしょう。そう考えると、私は子供の頃からずっと出来て20~30年くらいの比較的新しい組織で、自由闊達にやれてこられたんだと思います。


――― 父として、夫として ―――

西岡 いい話ですね。ところで、杉本さんって、どんなお父さんですか?
杉本 子供はまだ3歳ですが、夢や希望を持てるような子に育てたいですね。人間って、「夢や希望を持てて嬉しい」と感じるのは、選択肢が豊富にある時だと思うんです。たくさんの選択肢の中から自分が何か一つを選んで失敗したとしても、諦めがつくでしょう。それに、「次は、こうしよう」という、また新たな夢や希望だって生まれるじゃないですか。けれど、「これしかありません」って言われたら、不満だけが鬱積していきます。だから選択肢を拡げてあげたいと思います。
西岡 お子さんは男の子ですか?
杉本 はい、「開」と言います。自分で道を切り開いてくれと(笑)。
西岡 では、奥様にとって杉本さんはどんなご主人ですか?
杉本 あまりいい主人ではないかもしれませんね。私にとっては「会社(マクロミル)の方が先に生まれた子供で長男、息子が次男みたいなものですから(笑)。妻に言わせれば、「もっと、家庭に目を向けてくれ」という思いもあるんじゃないでしょうか。それでも、会社をつくったばかりの経済的な不安があった時には、妻がリクルートに残って働いてくれていました。ちょうど上場が見えてきたあたりに子供ができて、その後はリクルートを辞めて専業主婦をやっています。僕が未だに忙しく、夜の帰りも遅いことに一応の理解は示してくれていますが、戸惑いはあるでしょうね。でも、30代でヒマにしていて将来報われるわけがないでしょう。今は我を忘れるくらいに働かなくちゃいけないときだと、一応は理解してくれているようですが、正直なところは「もう少し家族のための時間をつくってほしい」と思っているのだろうと思います。
西岡 多少は反省していますか?
杉本 そうですね。子供のためにも。はい(笑)。
西岡 今日は杉本さんの知られざる一面に触れることが出来ました。この続きは杉本さんがモナコでのEOY世界大会に日本代表として出場されて、帰国されてから聞かせてください。本日はありがとうございました。

杉本 哲哉さんのProfile
神奈川県生まれ。1992年、早稲田大学社会科学部卒業後、株式会社リクルートに入社。就職情報誌営業部、財務部、新規事業開発室などを経て、2000年、インターネットを活用した市場調査(ネットリサーチ)を行う株式会社マクロミルを設立し、代表取締役社長CEOに就任。2004年東証マザーズに上場。翌2005年には、創業からわずか5年で東証一部へ市場変更。現在は、同社代表取締役会長CEO。

2006年6月7日水曜日

日本大使館から来ましたー!

ある国の首都で、お土産を買うために大変人気のあるお店に行きました。その時のことです。小さな店内には他にも日本人が二人、全部で4人の日本人が優しそうなご主人の説明を聞きながら楽しく試飲をさせてもらおうかとしていた矢先です。入り口がガラガラと開いて、「日本大使館から来ましたー!、お願いしまーす」と言って(英語で)、若い日本人の男が一人の客を伴って店に入ってきました。我々に応対する主人を「いつも済みません。試飲をお願いします」と言って手招きし、戸惑っている店主に声高に次々と注文を付ける若い大使館員の態度は横柄で、先客の我々4人はまったく眼中にないという態度です。この圧倒的に横柄な態度と声高な注文に店主はすっかり我々を忘れてしまって、「あれを試飲させろ」、「これを試飲させろ」の矢継ぎ早の注文にうろうろ、自分たちの試飲を忘れられてしまった我々4人はただ呆然となってしまいました。若き大使館員は連れてきた客に試飲を勧め、待たされている我々を尻目に得意満面です。 悪代官みたいなヤツですね。大使館の役人は我々国民に優先してサービスを受けることが出来ると信じているような様子でした。 さて、あなたなら、こんなときどうします?

もちろん、黙ってはいないでしょう。ボクも黙っては居ませんでした。 「ちょっと、日本大使館の方とやら。私たちは商品も決めて、試飲をさせて頂こうとしていました。あなた達は後から来たのだから順番を守って下さい」とビシっと言いました。店主にもこちらの言い分を伝えてこちらへのサービスを継続してもらったことは当然です。店主も気になっていた様子で直ぐさま我々のところに来てくれて丁寧な説明を始めてくれました。収まらなかったのが件の大使館員です。しばらくはイスに腰掛けて床を見つめていましたが、しばらくすると、立ち上がってボクのところにやって来て、「どういう意味ですか。もう少し詳しく話を聞かせて下さい」だって。この男は人にこんなことを言われたことがないのでしょうね。上司の教育が出来ていないというか、いや、部下から察するところ上司もきっとこんなモノなのでしょうね。「大使館員だから優先的にサービスを受けるべきだという法はないでしょう? むしろ公僕として、国民に奉仕する立場でしょう。少なくとも順番は守りなさい」と優しく(?)諭して上げました。黙っては居たけど理解できたのかなー???

2006年6月5日月曜日

大企業がこんなんでいいの?

この大企業はどこかおかしいよ 私の本職はVC。技術力のあるベンチャーをどんどん大企業に紹介してwin-winでの協業が成立するように指導することを仕事のメインに置いている。
なぜなら、ベンチャーは一般的に言って技術力はあっても
、  
  • 販路を持たない  
  • 量産の能力/ノウハウがない  
  • ブランドがない  
  • 宣伝・広告費がない  
  • 営業体制がない  
  • 与信がないから適正な在庫を持てない  
  • 二の矢、三の矢を番える(次の商品開発)ための研究開発体制がない  
  • 人材がない、時間がない、待てない、無い、無い、無いモノづくめ

なのだから、大企業がその技術を正しく評価してOEMで採用をしたり、代理店として販路を提供したり、Co-Brandingで知名度を提供したりという協力が不可欠である。このことは大企業が損をすると言うことではない。リストラで開発分野を限定したり、開発体制を縮小した大企業が必要な技術をすべて自前でやっていくことは不可能であるし、効率的ではない。いまは外部の技術を如何に活用するかが問われている。

それなのにだ、最近こんな大企業を見付けた。紹介した技術は特異で用途も広い。なんでこんなコトが出来るのかと訝るほどの特異技術だ。しかも、某大企業がその技術を高く評価して採用し、市場が出来つつある。実績が出つつあるのだ。ただし、そもそもの技術力に比べてその用途は限られているので、もっと広い範囲に展開させようと大企業への紹介を進めていた。その途上で、ある某大企業の登場となる。この会社の開発部長は、そのベンチャーの技術そのものは高く評価した上で、しかも自社への応用範囲が広いことを認めた上で、ベンチャーが提示したデモ機の完成度にケチを付けた。こんなチャチな実装では実用上のトラブルにつながりかねないという。その理由でこのベンチャーの技術を採用することを否としたのだ。

待って下さいよ。量産のための技術開発は大企業側の責任でしょう?そんなことは大企業の一番得意の技術でしょう? 自分発の技術でないモノを、市場が形成され出すとマネをして、高度の量産技術でコストを下げて薄利多売で売りまくるのは大企業の得意だったはずです。技術そのものが良ければ「量産技術は任せておけ」というのが大企業のはずだ。ところが、上の例では「どんなに良い技術でも、量産技術まで確立できてない技術は危なくて採用できません」と言っているのです。大丈夫ですかね?この大企業は。

2006年6月2日金曜日

イスラエル見聞録-2

②ユダヤ教の話からでちょっと抹香臭くなったが、イスラエルは実は花の国である。原種の花が2000種近くも発見されており、その数はイングランドの2倍近くだという。下の写真は原種のケシの花(ポピー)である。地中海とレバノンとの国境からともに10数キロ入った小さな村Yarkaで見付けたポピー畑。もちろん栽培されたものではない。写真では表せ切れないほど一面にオリーブの木が茂り、その下にポピーが人知れず咲き乱れていた。

ただし、交通標識がヘブライ語だけになってしまうこの小さな町にレンタカーでたどり着くのは容易ではなかった。ガソリンスタンドやオフィスやいろんなお店に立ち寄っては地図を片手に方向を確認しながら、それでも大過なくたどり着きました。そこに待っていたのはこの村に住む大家族一家、美味しい伝統的な料理を家族と一緒に頂いて素晴らしいランチになりました。料理は美味しいし人情は厚いし、イスラエルの別の一面を発見できました。食後はご主人夫婦が私たちを上の写真のポピー畑に案内してくれました。このポピー畑は今回の旅のベスト5の一つです。ここから一路ゴラン高原に向かう道路は車の数も少なく、家内がハンドルを握って夕刻前にゴラン高原の中のキブツに到着。キブツとは同じライフスタイル、人生の意義を持つ同士たちが生活の基盤を一つにして村を形成する集団と言えばいいのでしょうか、日本の山岸会がよく似た存在だと思います。ここのホテルを根城に周辺をトレッキングしたり、花畑を散策したりとイスラエルの自然を満喫することが出来ました。下のスケッチはその時の印象を切り取ったものです。花または花の山道を歩いたり、スケッチしたり弁当を食べたり2時間ほどのトレッキングでした。イスラエルらしいなーと思ったのは、遠足に来ている高校生や中学生など子供たちの列の後ろにライフル銃を肩に掛けた引率者が必ず付いていること。その銃は鳥か獣を撃つためですかと試しに聞いてみたら、For security.という答えが返ってきた。それにしては銃が旧式すぎて敵に襲われても応戦できなさそうとも思ったが。

Baniasの泉続く花盛りのトレッキングコース弁当はホテルの朝食の帰りに調達する「パンとオリーブオイルとチーズとトマト」。定番ですがこれは美味しいですよ。下のスケッチは、3月に数百万羽の渡り鳥が羽を休めるというフーラ湖のスケッチ。スケッチしているとみんなが見に寄ってくる。高校生の一段が「スケッチブックの前の方の絵も見せてくれ」というので見せてやると、「Beautiful!」と大騒ぎ。肩を組んで写真を撮ったりして楽しんだ。スケッチの楽しみの一つはこうして現地の人たちと仲良くなれることである。

ゴラン高原の自然を満喫して一路南へ、イエス・キリストが数々の奇蹟を行ったと伝えられるガリラヤ湖に遊びました。今回の旅程の中で唯一シトシトと雨に降られたのですが、雨にむせぶガリラヤ湖は特別に美しく、出発前に読んだ旧約聖書の話を彷彿とさせる光景でした。聞くところによれば、この季節には雨は降らないとのことで、我々を歓迎するためにキリストが奇蹟を起こしてくれたのかも知れません。 ここから宗教の町イエルサレムに向かいましたが、その時のお話しは前回の見聞記でお話ししました。それにしてもイエルサレムは見るところの多い、奥深い素敵な町です。前回に紹介した嘆きの壁で祈り続ける伝統的なユダヤ教徒のスケッチをここでもう一枚。

イエルサレムのOld Cityは宗教的に重要な地だが土産物屋が軒を連ねる観光地。商店街の靴屋に入ってサンダルを値切って買ったり、美味しいフレッシュなオレンジジュースを飲んだり、歩き回った。一つの問題は土産物店の商品に値札がないこと。サンダルを買うときは店主がいろいろ上手に「あなたには特別サービスだ」と言ってくれるが値札がないのだから怪しいモノだ。「値札が無いのはフェアーじゃない」と店主に文句を言ったら、たまたま居合わせたフランス女性たちが僕に同感だとウィンクをしてくれた。ほとんどの店に値札がない。まあ騙されてもと2000円位に値切って買ったサンダルは旅行中も旅行後もなかなか履き心地が宜しい。Old Cityで美味しい店を見付けてランチを食べた。たまたま立ち寄ったのだが、ボクは美味しい店を見付ける天賦の才能を持っているらしい。いつもこの才能がすこぶる役に立つ。 イスラエルはアジアとアフリカの接点としてつねに他国からの攻撃を受け迫害をされ続けた歴史の国だ。イエルサレムの最終日はナチス・ドイツのユダヤ人迫害の歴史を伝える博物館で過ごしたが、重かった。一人の狂気が大多数の人間から理性を奪い、国家を狂わせ、取り返しの付かない蛮行に追いやることができる。この人間の弱さに頭うなだれた。 イエルサレムを終えると死海へ。車の中から死海が見えたときには余りにも水の色が美しくてビックリした。薄い水色から深い紺碧まで、青色のグラディエーションが目に飛び込んできた。ここは海抜-400メートル、世界で最も低いところにある湖である。あくまでも青い空の下に広がる湖はいつまでも見つめていても見飽きぬ美しさだった。有名なエン・ゲディのキブツの中にあるホテルに泊まって死海を堪能することにした。いろいろと周辺で遊んでホテルに到着したのは4時頃、部屋に落ち着いてから「死海で浮かぼう」と定められた湖岸に着いたら二人の係員がホースで水を撒いて片づけている。あれっ変だなと思いながらも湖に入ろうとすると、It's closed.と言うではないか! 

以下はその時の会話:
Ikuo: Is it closed?
Staff: Yes, it is closed.
Ikuo: At what time do you close?
Staff: At 5:30pm.
Ikuo: 5:30? But, what time is it now?
Staff: It's 5:33.
Ikuo: Only 3 minutes late? Oh my God! We came here all the way from Japan. It is far, far away from here, you know? Why don't you let us enjoy paddling even for 5 minutes?
と聞くと係員がアゴを湖の方へしゃくって「入れ!」と言う。嬉しかったねー。係員の片付けは結構時間が掛かって、その間ずっと遊ばせてくれた。ありがとうさん。明くる日は余裕を持って死海に遊んだ。色の黒いボクは余り日に焼けると恥ずかしいから、カーボーイ・ハットの上に日傘を差してプカプカ浮いていたら、ヨーロッパ系の観光客から笑われてしまった。もともと死海は海抜-400メートルで空気の濃度が濃いから紫外線を通さず、日焼けをしないと言われている、が、念のために重装備であった。日傘の下のカーボーイ・ハットの下に色白の美肌ならぬ真っ黒の顔、こっちの方が恥ずかしかったかなー? 北欧からの連中は日頃の日光不足を解消するため懸命に日に焼けているが、ホテルで隣り合わせる男たちの脚や腕は重度の火傷のように物凄い水膨れである。よくやるよ!死海に関して一つご注意を。死海では泳ごうとしてはならない。塩分濃度が25%だから水が目にはいると物凄く痛いのだ。また、間違っても死海には飛び込んではならない。飛び込むと比重が大きいので頭や顔面を強打して重傷や死ぬことまであるらしい。死海を終えてリゾートのエイラットへは200キロほど走る。給油したガソリンスタンドで念のために4輪のタイヤをチェックして回ったときに左後方のタイヤの空気圧が足りないことに気付いた。よく見ると大きな釘が刺さっているではないか。気付かずに走り続けていたら炎天下の砂漠の中の道路でタイヤ交換をしなければならないところだった。クワバラクワバラ。ところが、釘を抜いたタイヤのチューブを修理してくれと言うと「道具がないからここでは出来ない。イエルサレムに行けばできる。エイラットに行くって? 途中に出来るところはないと思うよ」とのことだった。レンタカーのインフラは未だ不十分だ。途中、ローマ帝国に滅ぼされたときの最後の砦マサダや奇岩で有名なティムナパーク(下のスケッチ)


に立ち寄って無事に到着したエイラットは紅海を臨む海のリゾートである。ホテルの窓から右にはエジプト、左にはサウジアラビアとヨルダンが見える。写真はホテルの部屋からの眺望。ホテルのプライベート・ビーチで泳いで帰る度に腰に拳銃を付けた係員が部屋番号と氏名をチェックする。さすがイスラエルという印象。やってもらった方がもちろん安だから異存はない。

2006年6月1日木曜日

素人に分かり易く説明できないようじゃ

素人に分かり易く説明できないようじゃ、お前が分かっていない。

ホンダの創立者、本田宗一郎氏はこういって良く部下を叱咤激励したという。@MBAの塾長代理をして頂いているホンダの前企画室長小林三郎さんが講義で話された。

VCの私は毎日のようにベンチャー経営者の技術やビジネス・モデルの説明を聞く。その時につくづく思うのは「他人(ヒト)に分かり易く説明できないようじゃ、あんたも分かってないんじゃない?」ということである。
自分がよく分かっている人の話は実に分かり易い。難しいことが容易く聞こえる。ところが、自分がよく分かっていない人に限って、不必要に難しい専門語を多用し、容易いことを難しく話すものだ。