――― 小学生時代 ―――
西岡 今日は、「へぇー、杉本さんにそんな一面もあったのか」というようなお話をうかがわせてください。まずは、子供の頃の話から。杉本さんってどんなお子さんでしたか?
杉本 小学生の頃が、一番自分らしさを表現できていたような気がしますね。体はそれほど大きくなかったのですが、ワンパクで。周りにいる友たちを動員して、先生に談判したりね。家庭訪問の時に先生から「この子に悪いことを考えさせたら、とんでもない大人になりますよ」なんて言われて、母親がすごく落ち込んでいたのを覚えています。
西岡 なぜ、先生はそんなことを言ったんでしょうね。
杉本 鼻持ちならない生徒だったんでしょうね。従順に先生の言うことを聞くタイプじゃなかったし、かといって、指摘するような落ち度があるわけでもない。
西岡 先生にとって、扱いの難しい子供だったわけだ。
杉本 きっとそうだったと思います。そのころ住んでいたのは昭和40年前後に開発された横浜郊外にあるニュータウンで、私が昭和42年生まれ、そこに引っ越してきたのが45年くらい。通っていた小学校もそのころ急膨張する街に建設された学校で、2000人くらいの生徒がいましたね。1学年6クラスで、1クラス50人くらいはいたでしょうか。ところが、当時は「スクールウォーズ」などのテレビ番組が流行っていたほど、校内暴力が大問題になっていた頃です。心配した両親の配慮で中学から私学に進みました。
西岡 成績はいいほうだった?
杉本 そうですね。それも先生にとって嫌味だったのかもしれません。
西岡 成績のいい子って、普通は「幕府の犬」というか、先生に好かれる良い子じゃない?
杉本 僕は在野でしたね。森蘭丸のように先生の横にピタッという感じではなかったです。むしろ、友だちの先頭に立ってグワァーと皆を動かすほうが快感で楽しかったですね。
西岡 女の子にもモテたでしょう?
杉本 うーん…そうですね、小柄だったけど、人気はあったんじゃないかな。言うことが面白かったから、人気投票で学級委員に選ばれるようなところがありました。
西岡 僕と似ていますねぇ。
杉本 僭越ですが、西岡さんとは同じニオイを感じます(笑)。
西岡 僕も良い子でね、小学6年生の時には全校投票で選ばれて生徒会長をやっていました。朝礼では先生たちが出てくる前に、朝礼台に立って「気をつけー。前にならえー」ってやっていましたよ。今考えると嫌な子だけどね。
――― 中・高校生時代 ―――
杉本 西岡さんはずっと優秀な生徒だったのでしょうね。僕の場合はそれ以降、流転というか、どんどん落ちていったから。
西岡 それ、どういう意味?
杉本 父親が、西岡さんと同じ阪大工学部卒の技術者でして、いすゞ自動車に勤めていた、とても几帳面な男でした。僕の中学受験の時なんか、参考書を買ってきて勉強のスケジュールをつくってくれたんですよ。「今日は何ページから、何ページまでやりなさい」と予定を立てて、会社から帰ると答合わせまでしてくれました。だから勉強でもあまり苦労はしなかったんです。で、高校は神奈川にある聖光学院へ入りました。私は23期生でしたが、3期生に小田和正さんがいた学校です。彼は、東北大学の建築学科、早稲田の大学院と進んで、歌手になりましたけど。ですから、大学も先輩ですね(笑)。
西岡 僕、オフコースが大好きで、彼のコンサートにも行ったことありますよ。
杉本 えっ、本当ですか?
西岡 当時、海外出張の時にはオフコースとイルカとハイファイセットのテープを持って行ってベッドで聞いていました。で、そこは優秀な学校だったの?
杉本 一応、神奈川では、栄光学園、慶応の普通部と並ぶ男子進学校でしたね。
西岡 男子校か! 男女共学じゃなかったのは、マズかったですねぇ。
杉本 そうなんですよ(笑)。それにミッション系の学校だったので、ミサがあったり、校則が厳しかったり、校長がフランス系カナダ人だったりして、無宗教の僕にはカルチャーショックでした。異文化に触れることができるのはいいのですが、公立の学校で荒波に揉まれたほうが良かったかもしれませんね。一方で、住んだ街も小学校も中学/高校も比較的新しいところにいたので、束縛されずに自由闊達に育ったのは幸せでした。自分たちが「こうしていこう」と提案すれば、新しいことのできる余地があったように思います。高校2年の時に母親がガンで亡くなりました。それからの我が家は父親と私と弟のむさくるしい男所帯。まぁ、それが言い訳にはなりませんが、大学入試に失敗して、浪人したわけです。
西岡 食事の支度や洗濯は誰がやったの?
杉本 一応、家事は男3人で分担してました。父親は、ちょうど46、47歳の忙しい盛りでしたから、会社から疲れて帰ってきて、僕たちがダラダラしながらテレビを見ていて、ろくに洗濯もしない、ゴハンも食べないなど、苦労したと思います。その頃からでしょうか。映画監督になりたいと思うようになりました。
西岡 へぇー、どうして映画監督なの?
杉本 中・高校6年間でクラブはバスケットをやっていたのですが、趣味で8ミリ映画制作をやっていました。自分で脚本書いて、映画を撮っていたんですよ。
西岡 仲間と一緒に?
杉本 そう。脚本を書いて、見よう見まねで。役者も照明も編集も、全部自分たちでやっていました。ところが男子校だから女優がいない。だから、近くの女子校に行っては、「映画を撮るんだけど、この役やってくれない?」とかスカウトしては、手伝ってもらってました。
西岡 学校の先生は知っていたの?
杉本 知っていましたよ。毎年1回、学園祭の時に学校の大きなホールを借り切って、自分たちが撮った映画を上映させてもらうのが楽しみで。中学2年の時から高校2年まで4本ぐらい作りました。フィルムを買ったり、現像したり、編集したりするのにお金がかかる。それでも、1年がかりで案を練って「次は、どんなストーリーにしようか」、「キャスティングはどうしようか」なんて考えながら、自分たちでロケハンして、撮影して……。いやぁ、実にハマりましたねぇ。で、出版社の「ぴあ」が主催していた「ぴあ・フィルムフェスティバル(PFF)」にノミネートされるのが我々の目標だったんです。それが載ったんですよ。ぴあに我々の作品が!
西岡 監督は?
杉本 私です。出演はしなかったけど、それ以外は、台本を書くところから監督、撮影、編集、お金の管理まで全部やりました。
西岡 メンバーは何人いたの?
杉本 15人くらいだったかなぁ。学校のクラブではありませんでしたが、楽しかったですねぇ。その楽しさと反比例するように、まぁまぁだった成績もドンドン落ちていきました(笑)。
西岡 なぜ、その道を突き進まなかったの?杉本 浪人時代は、将来映画監督になるために芸術系の大学へ行きたいと真剣に思っていました。どんな大学へ行こうが才能さえあれば監督になれるのでしょうけど、当時はそういう学校に入らないと監督にはなれない、と思っていたんです。だから、美術大学とか、日大の芸術学部を受けようと思って相談したら、真面目一方の技術者であった父に悲しそうな顔をされました。ところがある時、キネマ旬報などの映画雑誌を読んでいるうちに、早稲田大学出身の監督や俳優が多いことを知ったんです。それで、「早稲田に行く」と言って父のOKをもらいました。
――― 大学生時代 ―――
西岡 大学では何を専攻されたのですか?
杉本 社会科学部という、早稲田大学の中でも新しい学部でした。政治から経済、法律、商学など、いろいろなことを学びましたね。まぁ、中途半端といえば中途半端なんでしょうけれど、そこで学んだからこそ、ものごとを分け隔てなく考えられるようになったと思います。「国の税収がこう変わると経済がこうなって、人の気持ちが荒むから社会はこうなる……」なんて社会の仕組みを学びました。新しい学部だったので、そこに集まってくる学生も、これまた自由な考えの人が多くて「こうしなくちゃいけない」なんてアタマの人は少なかった。面白かったですよ。
西岡 大学生時代は何をやっていたの?
杉本 大学では、新聞サークルで”同人誌”の制作をずっとやってました。今度は、「書く」方にいったんですね。早稲田大学には年間16万人の受験生が全国から押し寄せて来ていたのですが、彼らに、『早稲田魂』という、学生の視点から早稲田大学を紹介する受験生向け同人誌をつくって大隈講堂の前で売っていたのです。10日間で200~300万円くらいの売り上げになるんですよ。で、その資金を元手に今度は年4回、留学生向け英字新聞を発行する、といった活動スタイルでした。そのサークル自体は、もともと「ザ・ワセダ・ガーディアン」という50年以上の歴史があって、アメリカやイギリス、シンガポールなどの大学生とニューズレターで情報交換をしていました。けれど、それは全く売れなくて。活動資金がショートするから、資金稼ぎのために同人誌をやっていたというわけです。3年生の時にサークルの幹事長になって、100人くらいのメンバーをまとめていました。つまり、当時から上場直後の当社従業員より多いメンバーをまとめていたことになりますね。だから、従業員の数が多いから、まとめきれないなどとは思ったことはありません。
西岡 どんな大学生活でしたか?
杉本 そうですね。距離的には横浜の自宅からも通えたのですが、「いつまでも親元で甘えていずに、出て行け」と父親に言われて、大学から徒歩5分の場所にボロアパートを借りました。家賃は月4万円、風呂無しだけど通学時間もかからないし、とても気に入って4年間ずっとそこで暮らしていました。アルバイトはほとんどしませんでしたね。あまりお金を使うこともなかったので、親の仕送りで地味に生活してました。アルバイトをしなかったのは、グータラに聞こえるかも知れませんが、社会に出たら、死ぬほど働こうと決めていたんです。学生時代の4年間は大人の真似して働くよりも勉強をしっかりやって、友だちをたくさんつくって、大学生らしい生活を謳歌しようと考えていました。
西岡 へぇー。いい話ですねぇー。学生は惰眠・惰食を貪るのみと思っていたのに、そんな学生もいるのですね。
杉本 もちろん、たまに資金ショートしそうになると交通量調査やウェイターなんかのバイトを単発でしていましたよ。そういえば、当時から新聞はよく読んでいました。お金に余裕がないのに、朝日新聞をとって(笑)、とにかく新聞を読むのが楽しくてしょうがなかったんですよ。僕は昔から歴史が苦手でしてね、大学受験の時も社会は政治経済を選択しました。
西岡 普通は日本史か、世界史か、あっても地理ですよね。
杉本 そもそも政治経済なんて、高校の授業にまともにありませんでしたから。高校では日本史を選択したのですが、全く頭に入って来ない。徳川慶喜まで15代将軍を暗記して、スラスラ言えるヤツが不思議でしょうがなかった。けれど、近現代史は得意で、明治維新とか、大隈重信とか、板垣退助とか、坂本龍馬とか、その辺りのことなら好きですぐに頭に入った。それを活かせる政治経済は面白かったですね。憲法前文や9条、11条はスラスラ言えました。マネーローンダリングやマネーサプライがどうとか、日銀の役割や、なぜ外貨準備高が重要なのかとか。いやぁ、「これは役立つぞ!」と勉強が楽しかったですね!
西岡 高校・大学の勉強をそれほど「面白い」と言える人は少ないですよ。
杉本 勉強としてではなく、趣味としてスーッと頭に入って来たんですよ。だから、新聞を読んでいても楽しくてしょうがなかった。「こんどの選挙で自民党が大きく議席を減らしたら金利はこうなる」とかね。朝起きるとパジャマ姿でポストまで新聞を取りに行って、パンをかじりながら端から端まで読んでいました。特に時事問題には強かったですね。ゴルバチョフ、ペレストロイカからロシアの崩壊。などなど……。当時はインターネットなんてありませんでしたから、他の新聞を読むために大学の図書館に通い詰めていました。そんな勢いで、卒業したら「ジャーナリスト」になろうかと思ったんです。日経新聞社や日経BP社、雑誌社などに就職活動をしました。
――― 就職活動 ―――
杉本 出版社を回る活動の一環で、リクルートにも行った。一般の出版社とは毛色が違いますが。人事の人に気に入られてね。そういえば、リクルートには筆記試験がなかったんですよ。もちろん、他社の入社試験には筆記試験があって、「光ゲンジのメンバーは何人か?」なんて妙な時事問題もありましたね。
西岡 なんや、それ!?
杉本 でしょう? ほかにも、フランスの首相の名前をフルネームで書きなさいとか、漫画家の蛭子能収さんの名前に読み仮名をふりなさいとか。要は、ミーハー度を計るんでしょうね。まぁ、全問正解でなくてもいいんでしょうけれど。一方、リクルートは人間性を掘り下げることを重視した採用姿勢の会社であることがわかったんです。まさに西岡さんのように、「この頃、君は何を一生懸命やっていたの?」とか、「5年後は何をしているの?」、「夢は?」なんていうふうにいろいろ聞かれました。話していて楽しかったですね。で、少しずつリクルートに惹かれていったんです。そんなこんなしているうちに、リクルートの人事の人から「杉本君、どこの会社に行きたいの?」って聞かれて。「マスコミに行こうと思います」と言ったら、「君は、何かコトを起こした人を取材する人間になりたいの? それともあなた自身がコトを起こしたいの?」と聞くわけです。
西岡 へぇー、うまいねぇー。まさに、琴線に触れる質問だね。誰ですか、そんなこと言ったのは。
杉本 えーっと、もしかしたら、当時僕の採用担当は、現リンクアンドモチベーションの小笹さんだったので彼かもしれない。で、そんなこと言われたら、「取材しに行く人間になりたいです」なんて格好悪くて言えないじゃないですか。だから、つい「自分で何かやりたい」と答えたら、「じゃぁ、うちでやったら!」って、で後は、握手~って感じ。まぁ、迷いはなかったですけれどね。父親に話すと、「そういう虚業の世界のことはよくわからん。日本は製造業で成り立ってるんだ!」と言われて。
西岡 製造業なんかに行かなくて良かったじゃないですか。
杉本 うちの父親は「東京と大阪を走る新幹線は、製造業のビジネスマンでもっている」なんて思想の持ち主でした。リクルートに就職することを決めたら、「じゃあ俺の見えないところでやってくれ。もう知らん!」と家に帰れなくなって、仕方がないから、会社の寮に入れてもらうことにしました(笑)。
――― リクルート時代 ―――
西岡 それにしても、杉本さんのお父さんは背筋がシャンとした偉い方ですよね。
杉本 えぇ、「筋は通せ」ということだと思います。それで、大学近くのアパートを出てリクルートでの寮生活を始めたわけです。
西岡 大学でアパート生活とは全く違ったでしょう? 寮って何かとうるさいじゃない。
杉本 うるさいですよね。トイレも風呂も、食事も共同ですし、強烈な先輩が幅を利かせているし、厳しい寮長が居てけっこう体育会系のノリでした。食事なんか予約していても、夜遅く帰ると「トウショク」されているんですよ。
西岡 トウショク?
杉本 盗食、誰かに食われちゃうんです。そんなときは暗い夜道をとぼとぼ歩いてデニーズに行くのです。けれど、寮にはエンジニアとか、経理や総務とか、関連企業に出向してる人とか、いろいろな社員がいましたからね。私は営業部に配属されたのですが、風呂に入りながらいろんな話を聞けましたから、「寮っていいところだなぁ」と思っていましたよ。
西岡 杉本さんは与えられた環境を上手に利用する天賦の才能がありますねぇ。
杉本 そうですね。時間に厳しかったり、ややこしいこともあったりしましたけど、いろいろな部署の先輩や後輩と交流できて楽しく利用させてもらいました。お金も溜まりましたし(笑)。
西岡 ところで、なんで寮を出たの?
杉本 結婚したからです。27歳の時に結婚して、寮を出なければならなくなりました。
西岡 奥様は同じリクルートの人ですか?
杉本 そう、同期でした。結婚後は社宅で暮らしていましたから、永らく会社のお世話になったことになります。
西岡 リクルートっていい会社ですよね。
杉本 ええ。私にとっては、本当にいい会社でした。
西岡 けれど、独立しようと思ったのはなぜ?
杉本 採用試験の時のことがあったので、「マスコミを選ばず、リクルートに入った以上は、何か事業を起こさなければ意味がない」と思っていたんです。そうでなければ、内定を辞退した新聞・雑誌社にも申し訳ないと。だから、いつかは日経新聞に載るような事業を起こすための術を徹底的に身につけよう、と決めていました。リクルートは1日に10億円も売り上げる会社ですが、怠けている人も、休んでいる人も一杯居ます。それなのに、なぜそんなに稼げるのか不思議でしょうがありませんでした。大企業というものがどんな構造になっているのか知りたかったですね。それで今度は、お金の流れについて知りたくなって、自己申告で異動希望を出して財務部に入れてもらいました。借入金を管理するチームで、当時はリクナビなどの新規事業をつくるために莫大なシステム投資が必要な頃でしたから、銀行から150億円を借りるための金利交渉などをしているチームでした。学生時代に覚えた政治経済とか、ユーロ対円とかの知識がすごく役に立ちました。
西岡 へぇ。
杉本 財務部の先輩のお姉さま方は電卓を叩くのも、帳簿をつけるのも速いけど、「やっぱり借入金の管理は機械にさせたほうがいいな」と思って、担当役員に、「借入金を管理できるシステムをつくりたい」って言ったんです。そうしたら「君は、自分が細かい仕事をするのが苦手だから、そんなことを言ってるんじゃない?」と。で、「そうじゃない。今6人でやっている仕事を1人でできるようにします」と言ったら、「じゃぁ、予算をつけてやる」と仕事をやり易いようにボクを実務から外してくれたんですよね。入社2,3年目の僕に任せてくれるなんて立派な人でしょう。当時の財務担当の役員で山路さんという方です。その後、常勤監査役をやられて、つい先日、退任されたんですけれどね。とても感謝しています。それで、さくら情報システムから、アクセスを使った借入金の管理システムを買ってきて、リクルート用にカスタマイズするための作業を始めました。けれど、私にはシステムのプロではないので、全社システム化推進室という部門からエンジニアをつけてもらいました。その時一緒に財務のシステム化を手伝ってくれたのが、今マクロミルでシステム担当の役員をしている柴田です。プロジェクト開始の半年後にはシステムも出来て、膨大な数の借入金の管理が二人でできるようになりました。すると山路さんに、「今度はインターネットに関連した新しい部署ができる。このタイミングで異動しては、どうか」と誘われて。「ぜひ、新しい事業の立ち上げに参加しよう」と決意しました。異動先は新規事業開発室という部署で。インターネットに限らず、新たな情報誌をつくったり、新規事業を企画するところでした。ホットペッパーやゼクシィといった雑誌はそこで開発されたものです。
西岡 江幡さんのオールアバウトも?
杉本 そうですね。南場さんのDNAもそうですが、いろいろな出資案件や他社からの提携など持ち込み案件を受け付ける窓口で、金融の知識も役に立つし、事業立案や会社設立のために必要な知識も身に付くし、リクルート社内の役員とのパイプもできますからね。本当にいい経験をさせてもらったと思います。
西岡 最近のリクルートはコンサバな会社になりましたね。
杉本 当時は、失うものがないので怖いもの知らずでした。その頃、種を植えたものが今、少しずつ花開き始めています。けれど、同時にユニークな人がどんどん外に出ていってしまいましたね。ただ、私にとっては日々勉強することが多くて、面白かったですよ。
西岡 杉本さんにとっては、とてもいい会社でしたね。
杉本 リクルートも当時は世間相場から言えば新しいカルチャーの会社だったでしょう。そう考えると、私は子供の頃からずっと出来て20~30年くらいの比較的新しい組織で、自由闊達にやれてこられたんだと思います。
――― 父として、夫として ―――
西岡 いい話ですね。ところで、杉本さんって、どんなお父さんですか?
杉本 子供はまだ3歳ですが、夢や希望を持てるような子に育てたいですね。人間って、「夢や希望を持てて嬉しい」と感じるのは、選択肢が豊富にある時だと思うんです。たくさんの選択肢の中から自分が何か一つを選んで失敗したとしても、諦めがつくでしょう。それに、「次は、こうしよう」という、また新たな夢や希望だって生まれるじゃないですか。けれど、「これしかありません」って言われたら、不満だけが鬱積していきます。だから選択肢を拡げてあげたいと思います。
西岡 お子さんは男の子ですか?
杉本 はい、「開」と言います。自分で道を切り開いてくれと(笑)。
西岡 では、奥様にとって杉本さんはどんなご主人ですか?
杉本 あまりいい主人ではないかもしれませんね。私にとっては「会社(マクロミル)の方が先に生まれた子供で長男、息子が次男みたいなものですから(笑)。妻に言わせれば、「もっと、家庭に目を向けてくれ」という思いもあるんじゃないでしょうか。それでも、会社をつくったばかりの経済的な不安があった時には、妻がリクルートに残って働いてくれていました。ちょうど上場が見えてきたあたりに子供ができて、その後はリクルートを辞めて専業主婦をやっています。僕が未だに忙しく、夜の帰りも遅いことに一応の理解は示してくれていますが、戸惑いはあるでしょうね。でも、30代でヒマにしていて将来報われるわけがないでしょう。今は我を忘れるくらいに働かなくちゃいけないときだと、一応は理解してくれているようですが、正直なところは「もう少し家族のための時間をつくってほしい」と思っているのだろうと思います。
西岡 多少は反省していますか?
杉本 そうですね。子供のためにも。はい(笑)。
西岡 今日は杉本さんの知られざる一面に触れることが出来ました。この続きは杉本さんがモナコでのEOY世界大会に日本代表として出場されて、帰国されてから聞かせてください。本日はありがとうございました。
杉本 哲哉さんのProfile
神奈川県生まれ。1992年、早稲田大学社会科学部卒業後、株式会社リクルートに入社。就職情報誌営業部、財務部、新規事業開発室などを経て、2000年、インターネットを活用した市場調査(ネットリサーチ)を行う株式会社マクロミルを設立し、代表取締役社長CEOに就任。2004年東証マザーズに上場。翌2005年には、創業からわずか5年で東証一部へ市場変更。現在は、同社代表取締役会長CEO。
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