2006年10月10日火曜日

ビジネスの鍵?

みなさんは「ビジネスのカギは何だ?」という質問を受けたらどう答えますか。電車の広告で凄く面白いキャッチを発見しました。「ビジネスのカギはITでも英語でもない。接待ゴルフを支える腰だ」。これ、こう薬のトクホンの宣伝です。思い切った広告ですよね。

2006年10月6日金曜日

EOY-J ファイナリスと日本代表選定を終えて

既報の通り本年度のファイナリストと日本代表が決定した。昨日のアワード・レセプションの中で、セミファイナリストの皆さんの1分間スピーチを聞いていて「あー、この人もファイナリストの値打ちがあるなー」と思わずにはいられないことが何度もあった。十分な審査を尽くしたという自信がありながらも、命を掛けて事業をやっている人たちを審査することの重みに耐えかねた。皆さんの1分間スピーチが終了したときに予定外に壇上に上がり、審査委員長として、「今日、ファイナリストにならなかった人に審査委員会がXの評価を付けたわけではありません。ベンチャーにはその発展段階でいつEOYにチャレンジするかのタイミングの問題があります。今日、ファイナリストに選ばれなかった人はファイナリストの人と比較してタイミングが合わなかっただけです。ですから、来年、再来年にまた挑戦してください。日本代表になるまで何度でも挑戦して頂きたいのです。お願いします」と率直にお願いした。

今年度の審査の過程を振り返ってみると、本プログラムの基本に戻って推薦部会の草の根活動を重視し、セミファイナリストの選定は推薦部会に一任されるところから始めた。ただし、その後の審査に参考となる情報を得るべく、多くの審査委員も推薦部会での語り部たちのプレゼンを傍聴した。その後、選ばれたセミファイナリストたちを、まず全員30分のインタビューをし、審査委員会で議論した後、昨日の選考会で再度5分のプレゼンをお願いし、さらに絞り込んで精度をより上げるために一部の人たちにはもう一度10分のインタビューをさせて頂いた。これで全ての審査委員が全てのセミファイナリストをインタビュー出来るように配慮した。
だから、審査委員としては万全を尽くしたという思いがある。しかし、一方で今回は選に漏れた人たちには「ゴメンね。来年も是非また挑戦してくださいね」という思いを禁じえない。

挑戦者の皆さん、ありがとうございました。選ばれた人たちは大変おめでとうございます。推薦部会、事務局のみなさん、ご苦労様でした。審査委員の皆さま、お疲れ様でした。日本代表の鈴木清幸さん(アドバンスト・メディア)モナコで頑張ってください。

2006年10月4日水曜日

代読

先だって3つの省が関与するイベントに出席した。壇上にはそれぞれの省の副大臣が居並んでいる。主催者挨拶の後、3人の副大臣が順次、演題に上がって挨拶をした。それが全て、それぞれの省の大臣の挨拶の代読であった。「大臣は公務多忙のため出席できませんのでメッセージを預かって参りました。代読させて頂きます」と断って、お定まりの如く背広の胸ポケットから挨拶状を取り出して挨拶状を読み上げる。正にお定まりの光景である。しかし、待てよ。副大臣はもっと自信を持って自分の挨拶をしたらどうなんでしょう。副大臣は大臣をすぐ直下で補佐する要職です。「大臣は公務多忙のため出席できませんので、副大臣の私が代わってご挨拶申し上げます」と、堂々と省を代表してご自分の考え、思い、激励の言葉を述べられて良いのではないでしょうか。

数年前にある省主催のイベントで基調講演したとき、挨拶に来られた事務次官がやはり大臣の挨拶を代読された。私の基調講演も聴かれた事務次官と、ブレークの時間に控え室でお茶を飲んだとき、「次官といえば企業で言えば社長です。今日は次官がご自分で出席されたことをみんな喜んでいます。代読などせずにどうしてご自分の言葉でお話戴けなかったのですか」と率直にお話した。当の次官は「えっ! そうですね。良いことを言って頂いた。これからは自分の言葉で挨拶をします」と実に率直に礼を述べられたことがある。この方、立派な人ですね。

2006年10月3日火曜日

EOY-Jの審査委員長をベンチャー経営者に託します

アントレプレナーを顕彰する仕組みは本来、自然発生的にアントレプレナーたちが集い、ある時は口頭泡を飛ばせて経営哲学を戦わせ、夫々の仕事への思いを言い募り、相補完するベンチャーは協業のプランを練り、苦戦する仲間の肩を叩き、明日の日本を起業家たちのハビタットにするための貢献を誓う、そういう日常活動が先にあるべきだと思う。

そういう日常活動の中から「おい、起業家の世界代表を決めるイベントがモンテカルロであるんだってよ。我々も代表を出すか。先ずはお前が最適だ」、「いや、彼女が良いと思う」と議論が白熱し、「じゃー、審査委員会を作ろうか」と発展していくことが一番相応しい。「日本の優れた起業家を顕彰する仕組みは、起業家たち自身が手作りで育てていくことが望ましいのだ」と私は思う。

この問題意識を持ち続けて本EOY-Jに参画し、特に審査委員長をお引き受けしたこの3年間は、EOY‐Jの活性化(起業家自身の積極的な参画という意味で)のためにいろいろやったが成果を出せずに終わった。推薦部会の草の根活動を取り戻したり、過去応募アントレプレナーの再挑戦を呼び掛けたり、ファイナリスト選定過程と同期して起業家が集うリアルのコミュニティを実施したり、起業家が集うバーチャル・コミュニティとしてEOYブログを立ち上げたりと推薦部会、事務局の協力でやってきたが、しかし、起業家の積極的な参画は進まない。

いや、むしろ、その問題意識そのものが私の勝手な思い込みであったようだ。むしろ、「ベンチャー経営者は自分の会社のことで手一杯で、そんなことをやっていられない」というのが大勢の意見らしい。そして、「日本の優れた起業家の顕彰は起業家自身の問題であるはずだ。運営資金もアイディアも審査まで何もかもを既成の人や既成企業に頼っているのは本来の姿ではない」と考えるのは私を含めて極々少数意見なのかも知れない。それでも現在の委員長としては次の審査委員長は起業家自身にやってもらいたいと思っている。そして起業家たちの奮起を願うばかりだ。

2006年8月25日金曜日

こりゃ参った

久しぶりに新幹線の中でパソコンでセッセと仕事をする人に出会った。ところがこの人のキーボードを打つ音がうるさいの何の!キーボードの打音がもともと高い構造である上に、指を高い位置からパチパチと打ち付けるのである。しかも上手にパチパチと打つ。まるで考えていないように。こりゃ参った!何を参ったかというと、能率向上のために新幹線車内でまで仕事をしているのだから、立場上、「やかましい」と文句を言いにくいのだ。日本経済の対外競争力を考えるとき、横でビールを食らって寝てる奴のほうが問題なのだ。しかし、やかましい。気に留めなければたいしたことは無いのかもしれないが、気にしだすと最後、パチパチは益々ケタタマシイほどだ。参って遠くのほうへ席を替えた。唯一の解決策であった。やっぱり基本的なマナーは前提ですよね。

2006年8月3日木曜日

情報漏洩対策に一言

個人情報の漏洩問題でパソコンを社外に持ち出すことを禁じている会社が多い。しかし、90数%の漏洩問題が社内の不心得者により、意図的に情報が持ち出されていることによるという統計結果を見るときに、「情報漏洩を防ぐために社員のパソコン持ち出しを禁じています」と金科玉条のごとくルール化することの是非は問うて見る必要はあるだろう。

実際、社外でパソコンが使えなくなって、「昔と比べて仕事の能率は半分以下です」とか、「子供が居るので昔は定時に帰宅して子供の面倒を見、夜は家庭でパソコンに向かって仕事が出来たのに、今はオフィスでしかパソコンを使わせてもらえないので、止む無く残業が増え、子供の面倒が見られません」と嘆く女性のソフト開発者も多い。さらに、「昔は新幹線で出張のときにはずっとパソコンで仕事をしていましたが、いまは新幹線ではパソコンが無いので仕事は出来ません。ビールを飲んで居眠りしていることが社内で公認されています」との話もある。

また、こんな会社がある。「客先でのプレゼンが翌朝9時からあるときも、プレゼン資料を前日に持ち帰ることはセキュリティに問題があると許されなくなりました。当日の朝早くにオフィスに行ってプリントアウトしてから客先に向かいます」と言うことである。
先日、この会社の幹部を尋ねて訪問した。建物に入るときには、よくあるようにガードマンが敬礼してバッグの中をチェックする。爆弾が持ち込まれては困るからチェックは結構なことだが、これが客の気持ちに配慮してか、いい加減なチェックだ。皆さんも経験があるでしょう。こんないい加減なチェックならやらないほうがいいのではないかという程ちょっと視線を向ける程度だ。ところが、もっと驚くことには、面談が終わって退出するときには何のチェックも無い。もし、情報漏洩防止を真剣に考えているのなら、客のバッグの中を退出時にこそチェックすべきではないだろうか。しかし、バッグの中をチェックしても、社外に持ち出してはならない資料であることをガードマンが発見できるだろうか。情報漏洩防止は難しいよ。
もし、社内の不心得ものが客のパソコンにデータを記録させて持ち出すとなると、退出時にバッグの中に資料が無いかをチェックするだけでなく、客がパソコンを持ち込むこと自体を禁止しなければならない。

こう考えていくと情報漏洩を完全に防ぐことは不可能に近い。では、社員の社外でのパソコン使用を禁じていることの効果はどれくらいあるのだろうか。何事か起こったときの言い訳くらいの意味しかないのではないだろうか。その為に失われている生産性は莫大なはずだし、パソコンの持ち出し禁止で大きなダメージを食らう部署がより厳格に管理されている現状はこれでいいのだろうか。
能率とセキュリティはトレードオフだ。トレードオフであることをしっかり認識した上で適切な対策をしておかなければ、社員の能率だけしっかり落としただけで何も安全になっていないことを経営者は理解しているのだろうか。やっていることが中途半端だ。

2006年7月26日水曜日

西岡郁夫の起業家インタビュー 第5回 『平山 啓行さん』

――― 幼少時代 ―――

西岡 今日は、皆さんに知られてない平山さんの一面を引き出せたらいいなと。
平山 お酒でも飲まなくちゃ、無理ですよ(笑)。
西岡 じゃあ今度、一席用意します(笑)。今日は、そこに行くためのウォーミングアップということで。まず子供の頃の話を聞かせてください。どんな子だったの?
平山 1958年に大阪・東淀川区の三津屋というところで生まれました。小さい頃からメンコしたり、花札を使った「花合わせ」なんて遊びを夢中になってやっていましたよ。
西岡 学校の成績は良かったほう? 
平山 小学生の時はオール5。中学もクラスでトップでしたよ。
西岡 野球もやっていたんでしょう。女の子に一番もてるタイプだねー(笑)。
平山 高校に入って腰を痛めましてね。950グラムもある重たいバッドを振っていたから。今考えたら、アホやと思うんですけどね。1年生の時にやめちゃったんですよ。
西岡 で、いい子だった?
平山 いや、よくケンカしましたよ。小学校1年生の時からゲームセンターみたいなところに行っては、パチンコみたいなのをやってね。その玉をいつも半ズボンのポケットに入れておくんですよ。高学年の子に投げつけるために(笑)。そんなわけで、ケンカは強かったですね。ところが、小学校2年生の時に転校してね。始業式の時にいきなり在校生に巴投げされて。思わず泣いてしまった。それからは、ずい分おとなしくなりましたね。
西岡 ふ~ん。で、大きくなったら、何になろうと思っていたの?
平山 野球の選手です。王選手に憧れていました。


――― 青年時代 ―――

西岡 高校時代はどんなでしたか?
平山 野球をやめたから暇を持て余してね、空手をやっていました。ケンカの強い北陽高校とか、浪商の連中と遊んでいましたね。浪商は家が近いから、登校の時にメンチ切り合って。もちろん、校章は外していました(笑)。
西岡 それは悪いねぇ。それで、高校時代には何になろうと思ったの?
平山 パイロットです。パイロットになりたかったから、宮崎の航空大学を受験しようと思ったんですよ。そうしたら、入学試験が10月だと。普通は3月頃なのにね。どうにも間に合いそうもないから、弁護士にしようかなぁと(笑)。それで、担任の先生に「神戸大学か北海道大学か金沢大学に行きたい」と言ったら、「なぜか」って聞くんですよ。「だって、ロマンがあるでしょう」って答えたら、「アホか」って笑われました。くそっと、誕生日を過ぎた頃かな、1月から学校もほとんど行かないで思いっきり勉強しましたよ。神戸大学の法学部に入りました。真剣に勉強しようと法律の本を10万円くらい買いましたよ。
西岡 それは偉いねぇ。珍しい大学生だね!
平山 ところがクラブの勧誘があるでしょう。そこで、応援団に無理やり連れて行かれそうになったので、「今から彼女とデートだから」って(笑)一緒に居た高校の同窓生とずらかりました。医学部の彼女は合気道部だったんで、暇なときに見に行ってるうちに、横で練習している少林寺拳法部に「お前、入れ」と引き込まれてしまいました。
西岡 ふむふむ。
平山 イヤイヤって言っているのに、黒帯なんか巻かれちゃって、「似合うな」とか「かっこいいな」とかおだてるわけです。それで、ちょっとやったら、うまいわけですよ。ほら、高校で空手をやっていたから。で、ものすごく褒められて。同じ憲法でも、少林寺拳法にしようかなぁということで、法律の本も売っちゃいました。
西岡 大学時代はずっと少林寺拳法?
平山 そうです。神戸大学では卒業する時に、体育会で最も活躍した人に「最優秀部員賞」という賞があるのですが、大会に出た時の成績や欠席ゼロということで僕が受賞しましたよ。
西岡 少林寺拳法では何段になりました? 
平山 3段です。
西岡 街でチンピラに絡まれたりしたら、今でも勝てる?
平山 たぶん大丈夫。30秒以上続いたら息が上がると思うけど、30秒もかからないでしょうから。現役の4年生の時なんか、相手の蹴りや突きがスローに見えるくらでしたよ。
西岡 川上の「野球のボールが止まって見える」のと同じだね。ところで、少林寺拳法を始めるキッカケをつくってくれた、彼女とはどうなったの?
平山 付き合いましたよ(笑)。伊藤忠に入ってから1年だから……。5年間くらいは付き合ったかなぁ。
西岡 結婚はしなかったの?
平山 僕が就職した時は、彼女はまだ医学部で、プロポーズはしましたよ。そしたら、「仕事したいから、30歳まで待ってくれ」と。だから「待つよ」と言ったんですけど、「医者として仕事がしたいから結婚しても子供はつくらないよ」と言うのです。それはアカンでしょう。それで別れました。
西岡 彼女とはその後は会わずじまい?
平山 彼女が虎ノ門病院の脳外科の医者として頑張っていたようですが、何年か経って、大学時代にバイトしていた三宮のバーに行った時に、店のママから「彼女、亡くなったわよ」と聞きました。40歳のときだと聞きました。ビックリしましたね。
西岡 それはかわいそうに。


――― 決断の時 ―――


西岡 ところで、なぜ今のようなビジネスを始めようと思ったの?
平山 伊藤忠では、大阪の建設部建設第一課というところに15年間いました。そこには素晴らしい先輩方がたくさんいてね。 「迷った時は男らしいほうを選べ」とか、今でも大切にしていることをいろいろ教えてもらいました。ものすごく優秀な人たちでね。東京に本社が移ってからも、僕は大阪で好きなことをやらせてもらいましたよ。分譲マンションだったり、ゴルフ場だったり。場所から何から全て自分で決めていました。30歳そこそこで何百億円もするビッグプロジェクトも担当しましたよ。ゴルフ場やビルの場合は、お客さまにとっては一世一代のビッグプロジェクトですからね。オーナーの要望を聞いてコンサルティングして。伊藤忠とか何とか関係ない。常に、「お前はどういう人間か」を問われるわけです。
西岡 向こうは、あなたに自分の人生をかけているわけだ。
平山 そうです。だから、お客さまとは真剣に向き合いましたね。全てさらけ出して。結果、いろいろな仕事を任せてもらったし、成長させてもらいました。そんなわけで、当時はかなり稼ぎました。ところが、バブルが崩壊すると状況が大きく変わりました。そもそも伊藤忠の建設部は、商社の中でも一番大きかったので、バブル崩壊の影響も大きく受けました。それでも、僕の課は年間20億円くらいは稼いでいましたからね。会社から「東京本社に行って建設部を立て直してくれ」と頼まれました。東京へ移って、建設部の再建計画をつくって提案したら、通っちゃったんです。当時、僕は課長だったんですが、宗吉君(現在、株式会社クリード代表取締役社長)と増田君という「一を聞いて百を知る」というような有能な部下がいまして、「こいつらと一緒にやればできる」という自信もありました。それで、いつものように総論でみんなの賛成を取って、それから各論にもって行こうというつもりでいました。ところが、バブル崩壊とともに優秀な人たちが辞めちゃったものだから、僕たちが言うことを理解できる上司がいないんです。これから新しいことを始めようとしているのに、企画書の「てにおは」から始まって「あれ直せ、これ直せ」と。挙句、「わからないから、やめてくれ」ですよ。「これは、外に出てやったほうが早いな」と会社を辞めることにしました。
西岡 僕はね、いつも「自分の市場バリューを意識せよ」と言っているんですよ。大手企業の“部長”という肩書きだけで偉ぶっているけど、世の中的には「そんなヤツ知らんでー」という人ばかりでしょう。そうなっちゃダメですよと言いたい。「市場における自分のバリューを確立せよ」ってね。平山さんの場合は、伊藤忠時代にそれをやっていたわけだ。
平山 東京へ出てきてから1年で伊藤忠を辞めましたが、大阪へ帰ろうとは思わなかったですね。というのも、東京のマーケットは凄いですから。大阪に帰れば、人脈もあるし、仕事もできるだろうけど、シガラミも強い。商売はできても、事業家にはなれへん。東京でやったら事業家にもなれるし、上場もできるでしょう。
西岡 奥さまは反対しなかったの?
平山 東京に移ることは嫌がっていましたけど、会社を辞めること自体は反対しませんでしたね。僕が38歳で、10歳と7歳の子供が居ましたが会社を辞めることをリスキーだとは思いませんでした。会社を辞めても稼げるという自信がありました。
西岡 奥さまは心配しなかった?
平山 心配したでしょうけど、「言ってもしょうがない」と思っていたんじゃないでしょうか。僕が「自由にやれないほうが辛い人」だと理解してくれていたのでしょう。

――― ゼクス始動の時 ―――

西岡 それで、まず何をやったの?
平山 最終的には不動産コンサルティングですが、初めのうちは信用がありませんからね。「何か技術を身に付けよう」ということで一級建築施工管理技士の資格も取りましたし、毎日、役員と一緒に現場へ行って体得してローコストでマンションを建築する工法を発見しました。そして、大手のゼネコンが坪単価50万円かかるような賃貸マンションを37万円8000円という価格設定で、“ゼクスシステム”というのを売り出したんです。まぁ、「シニアをやろう」という気持ちは最初からありましたけど、その前に資金を稼がなくちゃアカンでしょう。だから初めから上場をめざして、ローコストで賃貸マンションを売っていこうと。
西岡 土地オーナーに「賃貸マンションやりましょうよ」と提案するの?
平山 そうです。「大手なら50万円かかるけど、うちでやると37万8000円で済みますよ。儲かりますよ」ってね。けれど、ぜんぜん仕事が取れないんですよ。ようやく取れた!と思ったら、必ずその翌日に電話がかかってきて、「大手が赤字覚悟で、その値段でやってくれるから」と断られるわけです。こうして1年2~3カ月も注文が取れませんでした。
西岡 ちなみに、立ち上げ資金はどうしたの?
平山 僕が持っていたマンションを6000~7000万円で売って、資本金にしました。
西岡 仲間は何人いたんですか?
平山 僕を含めて4人です。でも、仲間はお金を持っていませんでしたから。伊藤忠時代のお客さまに頼んで出してもらうことにしました。当然、最初は「独立なんてするな」と説得されるんですが、「平山君には世話になったから」と1000万円単位で5人程度の人が出してくれました。初年度は5800万円の赤字でしたが、2年目は1000万円の黒でした。やり方を変えたんですよ。ローコストだけを前面に押し出そうとすると、地主さんから怪しまれるんですよね。そのたびに、「伊藤忠におりました」とか言わなくちゃいけないし。要は、下手に見られるわけです。それじゃアカンなと。対等な立場でものを言えないといけないと思ったんです。
西岡 へぇ、一皮剥けましたね。素晴らしいですね。
平山 これまで不動産コンサルタントとしてやってきたんだから、きちんと不動産の有効活用を提案できるプロとしてやっていこうと。「マンションやりましょう」だけじゃなく、「ここはホテルがいいですね」、「ここは戸建て住宅にしましょう」といった具合です。そうこうしているうちに、いろいろなお話をいただくようになって。ローコスト工法は奥の手で使うことにしました。ですから、うちの技術室は安くつくるためのノウハウも持っているわけです。
西岡 不動産のバリューを高めて、技術で安くできた分は利益にしていこうと。
平山 お互いの利益ですね。

――― シニアハウジング事業のスタート ―――

平山 そして、2000年に介護保険制度がスタートしたのを機に、シニアハウジング事業を始めました。そして、2001年に多摩プラーザに「ボンセジュール」を、ジャスダックに上場した2003年4月には溝の口に「チャーミング」シリーズをオープンしました。と言っても、「ボンセジュール」はものすごく苦労しました。場所も建物もいいのを選んで、お金がかからないように地主さんが持っている建物を改造してつくった介護付き有料老人ホームですが、オープンに向けてチラシをうったら、42室しかないというのに、1日に100組以上のお客さまが見学に来てくれたんです。「これはスゴイ! うまくいったな」と思っていたのに、1週間後にフタを空けてみたら契約どころか、申し込みすら1件もない。慌ててお客さまに電話して、「なんとか、お願いします」って頼みました。ところが、見学に来てくれた時は「こんなに明るい老人ホームは今まで見たこともない」って喜んでいた人が、「お前のところは信用も実績もないじゃないから」と。「そんなところに、うちの大切なおじいちゃんやおばあちゃんを預けるわけにはいかない」というわけです。ショックでしたね。その時は本気でやめようかと思いました。
西岡 そもそも、それはどういうモデルなの?
平山 介護を必要とされる高齢者の方のための住宅です。入居時に300~400万円の一時金と食事付きで月々13~14万円いただくというモデルです。
西岡 それは信用がいるなぁー。
平山 そうなんですよ。世の中にはまだほとんど存在しない仕組みでしたからね。でも場所はたまプラーザから歩いて7分ですよ。それでもダメなんです。それで、公的な介護支援センターや病院を一軒一軒回って、いろいろな方を紹介してもらいました。で、最初に入居してくれたのが、厚生労働省の役人のお母さまでした。そうしたらお蔭で徐々に入ってくださる人が出てきたのです。
西岡 全室埋まるのに、どのくらいかかったんですか?
平山 42室が全部埋まるのに、3年くらいかかったんじゃないかなぁ。でも、1年くらいしたら、見学に来てくれた人の半分くらいが入居してくれるようになりました。まだまだ赤字でしたが、同時進行で江田につくっていたボンセジュールができたら、たまプラーザでやっているというのが実績になって、先に埋まっちゃったんです。
西岡 ほほう。
平山 同時にコンサルティングのほうで稼ぎながら、2年目でようやく1000万円の黒。次の年が5000万円で、やっと累損を解消しました。そして2000年には9000万円の黒。2001年はいろいろ資本投下したので2000万円、その翌年が4億円、そして7億円で上場しました。
西岡 溝の口には、何室くらいあるんですか?
平山 249室です。共用部分が半分以上ありますから、どうしても高くなってしまうんですけどね。日本ヒュームから借りた土地に自社で建物をつくって、コストを下げました。しかも東京三菱銀行が、「毒も食うなら皿までも」と建築費を全額出してくれることになって。借地なんだから担保もないのにね。溝の口がなかったら今のゼクスはなかったでしょうね。
西岡 溝の口のモデルはどうなっているんですか?
平山 健常な高齢者のための住宅です。一室あたり一時金として3000万円、月々13~14万円いただいています。
西岡 比較的富裕で、健康な老人夫婦が入居されるモデルですね。
平山 そうです。しかも要介護になった後も、ずっといていただけます。他所では普通は要介護になると6坪くらいのところへ移されちゃうんですけど、それで生じるストレスってものすごいものなんです。身体機能が15~20%も落ちるという統計結果まで出ているんですよ。うちではずっと居て頂けます。そのためにも、自社に介護できる仕組みをつくろうと。
西岡 そのあたりのことを具体的に聞かせてください。介護の品質はどうコントロールしているんですか?
平山 訪問介護サービスをやっている企業にお願いして、まず「ボンセジュールたまプラーザ」に訪問介護ステーションをつくって勉強させていただきました。で、3軒目からは自分のところで始めました。アウトソースしていても、クレームは結局、私たちのほうにくるんですよ。しかも別会社だとなかなか改善されない。ならば自社でやらなくてはと、自分たちでやることにして、初めの2つもうちで買い取りました。
西岡 介護のクオリティをコントロールする責任者は?
平山 ゼクスコミュニティという別会社をつくって運営しています。現在15棟、700室くらいありますが、今年中に新しいボンセジュールが12棟できるので、年内中に約1400室になります。
西岡 従業員は何人いるのですか?
平山 従業員は500人、介護士は350人くらいで女性が多いですね。施設介護ではトップクラスだと思っています。
西岡 入居者が病気になったら、どんなサポートをされるのですか?
平山 大切なのは普段からの予防だと思っています。将来的には医者も自社でコントロールできるようにしたいのですけれど、医療行為は医療法人でないとできませんから、今は東京女子医大と提携してジーメドという関連会社で医療関連サービスを行っています。施設内にクリニックを立ち上げる時は、ここが資金を出してサービス運営できる仕組みをつくっています。
西岡 ということは、治療が必要な入居者はそこへ送り込むのですか?
平山 そうです。溝の口にもクリニックはありますが、あくまでも安心のためのもので、簡単な治療や健診を行っています。本当に治療が必要な時は、提携している病院に行っていただきます。ゆくゆくは病院も持ちたいんですけれどね。医者が足りないんですよ。特に、サービス業だと思ってやってくれる人は少ないと思います。
西岡 平山さんのところでお世話している老人は延べ何人くらいいらっしゃるんですか?
平山 現在はボンセジュールに700人、溝の口と本郷に350人ですから、全部で1050人くらいです。2008年までには3500室になりますから、もっと増えるでしょうね。
西岡 そこで、最期を迎えられる方もいらっしゃるでしょう? そこもマーケットになりませんか?
平山 そこはあまり考えていません。お亡くなりになる時は、病院のほうが多いので。それでも施設で最期を迎えられる方もいらっしゃいますから、見取りを大切にしたいと思っています。
西岡 本郷で大きい部屋は何坪くらいありますか?
平山 30坪弱、90平米くらいですが、中には、2つの部屋を購入されて、コネクティングで使われていらっしゃる方もいます。お風呂は各部屋の中のほかにも、温泉があります。本郷や芦屋には、展望浴場のようなものがありますよ。レストランもアスレチックもあるので、マンションにスポーツクラブが付いたようなイメージです。

――― 新しいライフスタイルの提案 ―――

平山 ただし、最高級なお部屋を望まれるのでしたら、ご自分で自宅を改装されたほうがいいと思っています。というのも、僕はコミュニティづくりを大切にしていますから、入居される方には家でできないことをやってほしいんです。現在、20~30のサークルがありますが、支配人以下スタッフはご入居の方々のコミュニティへの参加のキッカケづくりをしています。「50歳以上のシニアにも、遊びと健康を提案しよう」ということで、ゴルフ場やリゾートホテルもやっています。そして将来的には、ゴルフ場の共通会員権価格の9割程度をボンセジュールやシニアレジデンスの入居一時金に変換できる仕組みをつくろうと。これも世界で初めての取り組みだと思います。特に企業の部長クラス以上で「名刺がないと恥ずかしい」という人たちには、「違う世界もありますよ。自分で新しいライフスタイルを築いていってください」と提案したいですね。
西岡 孤独に豪華な部屋に一人居るのではなくて、コミュニティでみんなと付き合いましょうと、そのために共有部分が非常に充実しているのですね。
平山 そうです。ですから、3億円も5億円もする高価な部屋をつくる気なんて全くないんですよ。
西岡 ご主人は三味線を弾いて、奥さんは英会話やダンスを楽しんで、みたいな生活を楽しんでくださいということですね。そういう場には平山さんも参加されるんですか?
平山 もちろんです。イベントには必ず参加しますし、入居者の方とテーブルを囲んでディナーをとりながらいろいろな話をします。
西岡 入居者の平均年齢は?
平山 75歳くらいです。
西岡 平山さんのご両親と同じくらいですか?
平山 ちょうどそのくらいです。そう言えば、来年、僕の両親も芦屋に入居しますよ。
西岡 いい話ですねぇ。ご両親は喜んでらっしゃるでしょう。
平山 そのようですね。4月には入る予定です。
西岡 ご両親にとっては、息子が成功した上に自分たちの住まいまで用意してくれて嬉しいでしょうね。平山さんのことはどんなふうに見ているんでしょう?
平山 そんな話をしたことはありませんけど、会社の株価は新聞で見ているようですね。
西岡 元気でいらっしゃるんですか?
平山 おやじは人工透析が必要ですが、それでも入居出来ますからこれからは安心です。
西岡 奥さまのご両親は?
平山 僕の両親と同じタイプの部屋に入居しますよ。
西岡 人間の最晩年を尊厳を持って生きてもらうための青梅慶友病院を経営される大塚理事長は精神科医時代に、友人から「認知症の親を受け入れてくれる病院がなくて困っている」と相談を受けたらしいですよ。ところが、あちこちの老人ホームを見て回ったのに、どこも汚くて、臭くて、危険で愕然とした。それで、「こんなところで自分の親を死なせるわけにいかない。自分の両親を安心して預けられる病院をつくろう」と思ったのがキッカケになったらしいですよ。結局、ご自身のご両親も、奥さまのご両親も青梅慶友病院で尊厳をもって最期を迎えたらしいのですが、今度は「将来は自分がこの病院で死にたい」と願っておられるとのコトです。
平山 へぇー。僕とまるで一緒じゃないですか。僕は、自分のところの施設を転々としたいですね。芦屋に入ったら、次は白金に入って……なんてね。他にもそういう人が出てくると思うんですよ。すでに「チャーミング・コート溝の口」に入居されている方が、「チャーミング・スクウェア舞子」へ遊びに行ったりしているので。
西岡 コミュニティが自立して、動き始めているなんていうことはあるんですか?
平山 完全に動き始めていますよ。もちろん、キッカケはこちらでつくりますけど。
西岡 いろいろなアイデアが出てくるでしょうね。それを平山さんが考えるわけ?
平山 僕が考えるというより、それぞれの現場で自然に発生します。例えば、文化祭ではショーもあるし、写真や陶芸、歌、楽器を楽しむ人もいます。
西岡 そこで自分がやっていることを発表するわけ?
平山 そうです。前の年に発表したのはダメですよというルールにすると、毎回新しくて素晴らしいものがたくさん出てくるんですよ。例えば、二科展に入賞した人がいるんですが、その人を中心に絵画のサークルができるんです。そして、「教えてほしい」という人の輪がどんどん広がっていくんです。こういう現象は、そのうち外にも飛び火するでしょうね。「チャーミング」シリーズの入居同士、さらには外の人たちに。
西岡 ほほう。
平山 それから、チャーミングソサエティというのをつくろうと思っているんですよ。そこで入居者もゴルフ場の会員もいろいろな人たちが集まって、みんなが楽しめる企画をやるのが僕の夢なんです。
西岡 いいですねぇ、平山さんの目が輝いていますよ。ほかにやりたいことは?
平山 将来はゼクスを引退してコミュニティのお世話をしたいと思っています。すでに財団やNPO法人はつくりましたが、今の状態ではなかなか思うように活動できませんからね。
西岡 高齢社会だから市場ニーズはどんどん大きくなっていくしね。
平山 以前、シニアを対象にアンケート調査して、「今の人生に何を求めるか」と聞いたら、「教えたい」という答えが一番多かったんですよ。そして二番目が「働きたい」、三番目が「学びたい」、次に「社会貢献したい」、最後に「感動したい」の順です。僕は、シニアにこの5つを全て満たしてもらいたい。けれど本質的に満足させようと思ったら、企業でやるのは難しいでしょう。だから、非営利でやろうと思っているんです。
西岡 確かに、「教えたい」という気持ちはありますよね。
平山 でしょう。だから、今度大学とやるんです。大学で学生に教えるのもいいし、学びに行くのもいい。そういう仕組みをつくろうかなと。
西岡 「教えたい」という願望をどうやって満たしてあげるかが難しいよね。「教えてほしい」という相手がいないと。
平山 懐かしい思い出を語ったたり、昔の歌を唄いながら脳を活性化させる心理的手法で「回想健康法」というのを指導している人がいるんですけどね。それをマスターした人に資格を与えることにしたら、殺到しましてね。資格を与えたところまでは良かったんだけど、資格を取った人が勝手にいろんなところへ教えに行っているんですよ。だから、ちょっとシステムを整備しようかなと思って。

――― 父として ―――

西岡 ところで、平山さんはどんなお父さんですか? 
平山 息子は今20歳と17歳なんですが、怖いんじゃないかな。怖いけど、話せる父親だと思いますよ。
西岡 子供たちはどうなってほしいですか?
平山 自由に、自分がやりたいことをやってほしいですね。
西岡 子供たちは、お父さんのことを尊敬してる?
平山 聞いたことはないけど、一応してるんじゃないかなぁ(笑)。
西岡 趣味は?
平山 ゴルフ。一応、シングルです。昔、ゴルフ場をつくっていたでしょう。オーナーってめちゃくちゃうまい人が多いんですよ。それでゴルフがヘタだと、言うこと聞いてくれないから、頑張りましたねぇ。1回1000円くらい賭けるんですけど、勝ったら1ホール預けてくれるんですよ。
西岡 ご主人としてはどうですか?
平山 あまりかまってあげてないから、寂しいでしょうね。家には帰りますが、いつも寝るだけですから。
西岡 土日があるでしょう?
平山 ゴルフですから(笑)。うちにダックスのワイヤーヘアーという犬が二匹いるんですが、しいて言えば「犬はかすがい」かなぁ。
西岡 「犬はかすがい」というのはうちも正にそうですねー。お互い気をつけましょう。今日は、素敵なお話をありがとうございました!

平山 啓行さんのProfile
1958年大阪生まれ。1980年神戸大学法学部法学科卒業後、伊藤忠商事株式会社に入社。大阪本社建設部、本社勤務を経て、1996年に退職。 1996年に株式会社ゼクスを設立し、代表取締役に就任。1997年よりシニアハウジングビジネスを始動し、2003年JASDAQに店頭公開。2005年東証場第二部に市場変更。

2006年7月7日金曜日

私はあの時一皮剥けた

ビジネス・パーソンとして「一皮剥ける経験」は貴重である。平社員のとき、課長のとき、部長のとき、取締役になってから、社長のとき、、、といつまで経っても人間は成長していかなければならない。問題解決に当たって平社員が取れる選択肢は限られている一方で、社長には多くの強力な選択肢があるのは当然である。しかし、自分の取れる選択肢が限られていることを当然として、その殻の中だけで縮こまっていると大きな仕事は出来ない。だから、ビジネス・パーソンは成長のために自分の殻を脱皮し続けなければならないのだ。ビジネス社会で大きく成長を遂げた人たちは若いときから脱皮を繰り返して来たはずである。その脱皮の経験を若手の皆さんに共有してもらいたいという思いで「私たちの成長物語(一皮剥けた経験談)」をベテランたちに語ってもらう企画をした。時は7月10日(月)、場所は東京駅前丸ビル7階大ホール、時間は午後2時から3時半まで。その日は丸ビル21Cクラブのサマーイベントが開かれ、「私たちの成長物語(一皮剥けた経験談)」はそのイベントの一部として開催される。この日、ベテランとして一皮剥けた経験談を話して頂けるのは、河原春郎ケンウッド社長、今野由梨ダイヤルサービス社長、松井道夫松井証券社長。西岡郁夫が企画をしたので責任を取ってコーディネートを務めます。本イベントは一般の方にも公開されています。急なご案内で恐縮ですが、興味のある方は以下をご参照ください。
http://www.marubiru.jp/01_event/event/21c_06summer/

2006年6月30日金曜日

最近の歩行者

車を運転していたり、タクシーに乗っていて最近気になるのは、歩行者のマナーの変化だ。自分が若かった頃は、道路を横断するときには、歩行者用信号が青でも駆け足気味に渡ったモノである。誰もが、そうしていたような記憶がある。たとえ歩行者用信号が青でも、「車が左折をしたくてじっと待っているから急いであげないと!」という他人への配慮があった。最近は、歩行者の態度がでかい、というよりも無神経すぎる。携帯電話でしゃべりながら下を向いてグズグズ横断していく歩行者が多いし、歩行者優先を良いことに信号が赤に変わっているのに無理に渡ろうとする歩行者も多い。迷惑をしている車は眼中にはないらしい。

日本の信号機は一般的に、歩行者の横断と同方向への車両の直進、および左折が同じ信号で行われる。しかも、車両の左折に与えられる時間は歩行者用信号が青から黄、赤と変わってからほんのわずかな時間であるから、歩行者がノロノロすると車両が左折する暇が無くなる。横断者の混み合う交差点では車両の方が左折できずに大変だ。止む無く車両用信号が赤になってしまってから無理して突っ込んで来て左折していく車両も多い。

もう対策が必要である。こういう交差点は原則すべてスクランブル方式にするしかないのではないかと思うが、警察はいつまでこういう状況を放置しておくのだろう。何かウルトラCの対策を準備しているのか? 単なる無思慮で放置しているのか?

2006年6月28日水曜日

次官の代読

ある大きなイベントで基調講演を仰せつかったときのこと。基調講演の前にはお定まりのご挨拶がある。この日は協賛するお役所もリキが入っているらしく省の事務次官が挨拶をした。普通は局長か部長、または課長の挨拶が多いのに、この時は事務次官が自分で舞台に立った。次官は段上でおもむろに胸のポケットから封筒に入った挨拶状を取り出し、読み上げて、「xx省大臣yy、代読事務次官zz」と読み終わって一礼し、退場した。

私の基調講演後、二人で控え室に入ったとき、「よく分かる面白いお話でした。今回の運動の趣旨が伝わって助かります」と丁寧に挨拶された。「いえいえ、お役に立って何よりです」とこちらも型通り挨拶した後、「ところで、次官」と思い切って、切り出した。「事務次官は会社で言えば社長です。大臣のご挨拶を代読などされずに、ご自分のお考えを聞かせて頂いた方が我々は嬉しいですよ」と率直に、直裁にお話した。次官は、ちょっと考えて、「なるほどー! そうですねー! 今まで習慣のように部下の作った文章を読んでいましたが、なるほど、自分の考えを自分の名前でお話すべきですねー。これからそうします! 西岡さん、ありがとうございます」ときっぱりと言われた。「是非お願いします」と一礼したが、この次官、なかなかの人である。

2006年6月19日月曜日

西岡郁夫の起業家インタビュー 第4回 『杉本 哲哉さん』

知られざる杉本さんの発見


――― 小学生時代 ―――

西岡 今日は、「へぇー、杉本さんにそんな一面もあったのか」というようなお話をうかがわせてください。まずは、子供の頃の話から。杉本さんってどんなお子さんでしたか?
杉本 小学生の頃が、一番自分らしさを表現できていたような気がしますね。体はそれほど大きくなかったのですが、ワンパクで。周りにいる友たちを動員して、先生に談判したりね。家庭訪問の時に先生から「この子に悪いことを考えさせたら、とんでもない大人になりますよ」なんて言われて、母親がすごく落ち込んでいたのを覚えています。
西岡 なぜ、先生はそんなことを言ったんでしょうね。
杉本 鼻持ちならない生徒だったんでしょうね。従順に先生の言うことを聞くタイプじゃなかったし、かといって、指摘するような落ち度があるわけでもない。
西岡 先生にとって、扱いの難しい子供だったわけだ。 
杉本 きっとそうだったと思います。そのころ住んでいたのは昭和40年前後に開発された横浜郊外にあるニュータウンで、私が昭和42年生まれ、そこに引っ越してきたのが45年くらい。通っていた小学校もそのころ急膨張する街に建設された学校で、2000人くらいの生徒がいましたね。1学年6クラスで、1クラス50人くらいはいたでしょうか。ところが、当時は「スクールウォーズ」などのテレビ番組が流行っていたほど、校内暴力が大問題になっていた頃です。心配した両親の配慮で中学から私学に進みました。
西岡 成績はいいほうだった?
杉本 そうですね。それも先生にとって嫌味だったのかもしれません。
西岡 成績のいい子って、普通は「幕府の犬」というか、先生に好かれる良い子じゃない?
杉本 僕は在野でしたね。森蘭丸のように先生の横にピタッという感じではなかったです。むしろ、友だちの先頭に立ってグワァーと皆を動かすほうが快感で楽しかったですね。
西岡 女の子にもモテたでしょう?
杉本 うーん…そうですね、小柄だったけど、人気はあったんじゃないかな。言うことが面白かったから、人気投票で学級委員に選ばれるようなところがありました。
西岡 僕と似ていますねぇ。
杉本 僭越ですが、西岡さんとは同じニオイを感じます(笑)。


西岡 僕も良い子でね、小学6年生の時には全校投票で選ばれて生徒会長をやっていました。朝礼では先生たちが出てくる前に、朝礼台に立って「気をつけー。前にならえー」ってやっていましたよ。今考えると嫌な子だけどね。

――― 中・高校生時代 ―――

杉本 西岡さんはずっと優秀な生徒だったのでしょうね。僕の場合はそれ以降、流転というか、どんどん落ちていったから。
西岡 それ、どういう意味?
杉本 父親が、西岡さんと同じ阪大工学部卒の技術者でして、いすゞ自動車に勤めていた、とても几帳面な男でした。僕の中学受験の時なんか、参考書を買ってきて勉強のスケジュールをつくってくれたんですよ。「今日は何ページから、何ページまでやりなさい」と予定を立てて、会社から帰ると答合わせまでしてくれました。だから勉強でもあまり苦労はしなかったんです。で、高校は神奈川にある聖光学院へ入りました。私は23期生でしたが、3期生に小田和正さんがいた学校です。彼は、東北大学の建築学科、早稲田の大学院と進んで、歌手になりましたけど。ですから、大学も先輩ですね(笑)。
西岡 僕、オフコースが大好きで、彼のコンサートにも行ったことありますよ。
杉本 えっ、本当ですか?
西岡 当時、海外出張の時にはオフコースとイルカとハイファイセットのテープを持って行ってベッドで聞いていました。で、そこは優秀な学校だったの?
杉本 一応、神奈川では、栄光学園、慶応の普通部と並ぶ男子進学校でしたね。
西岡 男子校か! 男女共学じゃなかったのは、マズかったですねぇ。
杉本 そうなんですよ(笑)。それにミッション系の学校だったので、ミサがあったり、校則が厳しかったり、校長がフランス系カナダ人だったりして、無宗教の僕にはカルチャーショックでした。異文化に触れることができるのはいいのですが、公立の学校で荒波に揉まれたほうが良かったかもしれませんね。一方で、住んだ街も小学校も中学/高校も比較的新しいところにいたので、束縛されずに自由闊達に育ったのは幸せでした。自分たちが「こうしていこう」と提案すれば、新しいことのできる余地があったように思います。高校2年の時に母親がガンで亡くなりました。それからの我が家は父親と私と弟のむさくるしい男所帯。まぁ、それが言い訳にはなりませんが、大学入試に失敗して、浪人したわけです。
西岡 食事の支度や洗濯は誰がやったの?
杉本 一応、家事は男3人で分担してました。父親は、ちょうど46、47歳の忙しい盛りでしたから、会社から疲れて帰ってきて、僕たちがダラダラしながらテレビを見ていて、ろくに洗濯もしない、ゴハンも食べないなど、苦労したと思います。その頃からでしょうか。映画監督になりたいと思うようになりました。
西岡 へぇー、どうして映画監督なの?
杉本 中・高校6年間でクラブはバスケットをやっていたのですが、趣味で8ミリ映画制作をやっていました。自分で脚本書いて、映画を撮っていたんですよ。
西岡 仲間と一緒に?
杉本 そう。脚本を書いて、見よう見まねで。役者も照明も編集も、全部自分たちでやっていました。ところが男子校だから女優がいない。だから、近くの女子校に行っては、「映画を撮るんだけど、この役やってくれない?」とかスカウトしては、手伝ってもらってました。
西岡 学校の先生は知っていたの?
杉本 知っていましたよ。毎年1回、学園祭の時に学校の大きなホールを借り切って、自分たちが撮った映画を上映させてもらうのが楽しみで。中学2年の時から高校2年まで4本ぐらい作りました。フィルムを買ったり、現像したり、編集したりするのにお金がかかる。それでも、1年がかりで案を練って「次は、どんなストーリーにしようか」、「キャスティングはどうしようか」なんて考えながら、自分たちでロケハンして、撮影して……。いやぁ、実にハマりましたねぇ。で、出版社の「ぴあ」が主催していた「ぴあ・フィルムフェスティバル(PFF)」にノミネートされるのが我々の目標だったんです。それが載ったんですよ。ぴあに我々の作品が!
西岡 監督は?
杉本 私です。出演はしなかったけど、それ以外は、台本を書くところから監督、撮影、編集、お金の管理まで全部やりました。
西岡 メンバーは何人いたの?
杉本 15人くらいだったかなぁ。学校のクラブではありませんでしたが、楽しかったですねぇ。その楽しさと反比例するように、まぁまぁだった成績もドンドン落ちていきました(笑)。
西岡 なぜ、その道を突き進まなかったの?杉本 浪人時代は、将来映画監督になるために芸術系の大学へ行きたいと真剣に思っていました。どんな大学へ行こうが才能さえあれば監督になれるのでしょうけど、当時はそういう学校に入らないと監督にはなれない、と思っていたんです。だから、美術大学とか、日大の芸術学部を受けようと思って相談したら、真面目一方の技術者であった父に悲しそうな顔をされました。ところがある時、キネマ旬報などの映画雑誌を読んでいるうちに、早稲田大学出身の監督や俳優が多いことを知ったんです。それで、「早稲田に行く」と言って父のOKをもらいました。


――― 大学生時代 ―――

西岡 大学では何を専攻されたのですか?
杉本 社会科学部という、早稲田大学の中でも新しい学部でした。政治から経済、法律、商学など、いろいろなことを学びましたね。まぁ、中途半端といえば中途半端なんでしょうけれど、そこで学んだからこそ、ものごとを分け隔てなく考えられるようになったと思います。「国の税収がこう変わると経済がこうなって、人の気持ちが荒むから社会はこうなる……」なんて社会の仕組みを学びました。新しい学部だったので、そこに集まってくる学生も、これまた自由な考えの人が多くて「こうしなくちゃいけない」なんてアタマの人は少なかった。面白かったですよ。
西岡 大学生時代は何をやっていたの?
杉本 大学では、新聞サークルで”同人誌”の制作をずっとやってました。今度は、「書く」方にいったんですね。早稲田大学には年間16万人の受験生が全国から押し寄せて来ていたのですが、彼らに、『早稲田魂』という、学生の視点から早稲田大学を紹介する受験生向け同人誌をつくって大隈講堂の前で売っていたのです。10日間で200~300万円くらいの売り上げになるんですよ。で、その資金を元手に今度は年4回、留学生向け英字新聞を発行する、といった活動スタイルでした。そのサークル自体は、もともと「ザ・ワセダ・ガーディアン」という50年以上の歴史があって、アメリカやイギリス、シンガポールなどの大学生とニューズレターで情報交換をしていました。けれど、それは全く売れなくて。活動資金がショートするから、資金稼ぎのために同人誌をやっていたというわけです。3年生の時にサークルの幹事長になって、100人くらいのメンバーをまとめていました。つまり、当時から上場直後の当社従業員より多いメンバーをまとめていたことになりますね。だから、従業員の数が多いから、まとめきれないなどとは思ったことはありません。
西岡 どんな大学生活でしたか?
杉本 そうですね。距離的には横浜の自宅からも通えたのですが、「いつまでも親元で甘えていずに、出て行け」と父親に言われて、大学から徒歩5分の場所にボロアパートを借りました。家賃は月4万円、風呂無しだけど通学時間もかからないし、とても気に入って4年間ずっとそこで暮らしていました。アルバイトはほとんどしませんでしたね。あまりお金を使うこともなかったので、親の仕送りで地味に生活してました。アルバイトをしなかったのは、グータラに聞こえるかも知れませんが、社会に出たら、死ぬほど働こうと決めていたんです。学生時代の4年間は大人の真似して働くよりも勉強をしっかりやって、友だちをたくさんつくって、大学生らしい生活を謳歌しようと考えていました。
西岡 へぇー。いい話ですねぇー。学生は惰眠・惰食を貪るのみと思っていたのに、そんな学生もいるのですね。
杉本 もちろん、たまに資金ショートしそうになると交通量調査やウェイターなんかのバイトを単発でしていましたよ。そういえば、当時から新聞はよく読んでいました。お金に余裕がないのに、朝日新聞をとって(笑)、とにかく新聞を読むのが楽しくてしょうがなかったんですよ。僕は昔から歴史が苦手でしてね、大学受験の時も社会は政治経済を選択しました。
西岡 普通は日本史か、世界史か、あっても地理ですよね。
杉本 そもそも政治経済なんて、高校の授業にまともにありませんでしたから。高校では日本史を選択したのですが、全く頭に入って来ない。徳川慶喜まで15代将軍を暗記して、スラスラ言えるヤツが不思議でしょうがなかった。けれど、近現代史は得意で、明治維新とか、大隈重信とか、板垣退助とか、坂本龍馬とか、その辺りのことなら好きですぐに頭に入った。それを活かせる政治経済は面白かったですね。憲法前文や9条、11条はスラスラ言えました。マネーローンダリングやマネーサプライがどうとか、日銀の役割や、なぜ外貨準備高が重要なのかとか。いやぁ、「これは役立つぞ!」と勉強が楽しかったですね!
西岡 高校・大学の勉強をそれほど「面白い」と言える人は少ないですよ。
杉本 勉強としてではなく、趣味としてスーッと頭に入って来たんですよ。だから、新聞を読んでいても楽しくてしょうがなかった。「こんどの選挙で自民党が大きく議席を減らしたら金利はこうなる」とかね。朝起きるとパジャマ姿でポストまで新聞を取りに行って、パンをかじりながら端から端まで読んでいました。特に時事問題には強かったですね。ゴルバチョフ、ペレストロイカからロシアの崩壊。などなど……。当時はインターネットなんてありませんでしたから、他の新聞を読むために大学の図書館に通い詰めていました。そんな勢いで、卒業したら「ジャーナリスト」になろうかと思ったんです。日経新聞社や日経BP社、雑誌社などに就職活動をしました。


――― 就職活動 ―――

杉本 出版社を回る活動の一環で、リクルートにも行った。一般の出版社とは毛色が違いますが。人事の人に気に入られてね。そういえば、リクルートには筆記試験がなかったんですよ。もちろん、他社の入社試験には筆記試験があって、「光ゲンジのメンバーは何人か?」なんて妙な時事問題もありましたね。
西岡 なんや、それ!?
杉本 でしょう? ほかにも、フランスの首相の名前をフルネームで書きなさいとか、漫画家の蛭子能収さんの名前に読み仮名をふりなさいとか。要は、ミーハー度を計るんでしょうね。まぁ、全問正解でなくてもいいんでしょうけれど。一方、リクルートは人間性を掘り下げることを重視した採用姿勢の会社であることがわかったんです。まさに西岡さんのように、「この頃、君は何を一生懸命やっていたの?」とか、「5年後は何をしているの?」、「夢は?」なんていうふうにいろいろ聞かれました。話していて楽しかったですね。で、少しずつリクルートに惹かれていったんです。そんなこんなしているうちに、リクルートの人事の人から「杉本君、どこの会社に行きたいの?」って聞かれて。「マスコミに行こうと思います」と言ったら、「君は、何かコトを起こした人を取材する人間になりたいの? それともあなた自身がコトを起こしたいの?」と聞くわけです。
西岡 へぇー、うまいねぇー。まさに、琴線に触れる質問だね。誰ですか、そんなこと言ったのは。
杉本 えーっと、もしかしたら、当時僕の採用担当は、現リンクアンドモチベーションの小笹さんだったので彼かもしれない。で、そんなこと言われたら、「取材しに行く人間になりたいです」なんて格好悪くて言えないじゃないですか。だから、つい「自分で何かやりたい」と答えたら、「じゃぁ、うちでやったら!」って、で後は、握手~って感じ。まぁ、迷いはなかったですけれどね。父親に話すと、「そういう虚業の世界のことはよくわからん。日本は製造業で成り立ってるんだ!」と言われて。
西岡 製造業なんかに行かなくて良かったじゃないですか。
杉本 うちの父親は「東京と大阪を走る新幹線は、製造業のビジネスマンでもっている」なんて思想の持ち主でした。リクルートに就職することを決めたら、「じゃあ俺の見えないところでやってくれ。もう知らん!」と家に帰れなくなって、仕方がないから、会社の寮に入れてもらうことにしました(笑)。


――― リクルート時代 ―――

西岡 それにしても、杉本さんのお父さんは背筋がシャンとした偉い方ですよね。
杉本 えぇ、「筋は通せ」ということだと思います。それで、大学近くのアパートを出てリクルートでの寮生活を始めたわけです。
西岡 大学でアパート生活とは全く違ったでしょう? 寮って何かとうるさいじゃない。
杉本 うるさいですよね。トイレも風呂も、食事も共同ですし、強烈な先輩が幅を利かせているし、厳しい寮長が居てけっこう体育会系のノリでした。食事なんか予約していても、夜遅く帰ると「トウショク」されているんですよ。
西岡 トウショク?
杉本 盗食、誰かに食われちゃうんです。そんなときは暗い夜道をとぼとぼ歩いてデニーズに行くのです。けれど、寮にはエンジニアとか、経理や総務とか、関連企業に出向してる人とか、いろいろな社員がいましたからね。私は営業部に配属されたのですが、風呂に入りながらいろんな話を聞けましたから、「寮っていいところだなぁ」と思っていましたよ。
西岡 杉本さんは与えられた環境を上手に利用する天賦の才能がありますねぇ。
杉本 そうですね。時間に厳しかったり、ややこしいこともあったりしましたけど、いろいろな部署の先輩や後輩と交流できて楽しく利用させてもらいました。お金も溜まりましたし(笑)。
西岡 ところで、なんで寮を出たの?
杉本 結婚したからです。27歳の時に結婚して、寮を出なければならなくなりました。
西岡 奥様は同じリクルートの人ですか?
杉本 そう、同期でした。結婚後は社宅で暮らしていましたから、永らく会社のお世話になったことになります。
西岡 リクルートっていい会社ですよね。
杉本 ええ。私にとっては、本当にいい会社でした。
西岡 けれど、独立しようと思ったのはなぜ?
杉本 採用試験の時のことがあったので、「マスコミを選ばず、リクルートに入った以上は、何か事業を起こさなければ意味がない」と思っていたんです。そうでなければ、内定を辞退した新聞・雑誌社にも申し訳ないと。だから、いつかは日経新聞に載るような事業を起こすための術を徹底的に身につけよう、と決めていました。リクルートは1日に10億円も売り上げる会社ですが、怠けている人も、休んでいる人も一杯居ます。それなのに、なぜそんなに稼げるのか不思議でしょうがありませんでした。大企業というものがどんな構造になっているのか知りたかったですね。それで今度は、お金の流れについて知りたくなって、自己申告で異動希望を出して財務部に入れてもらいました。借入金を管理するチームで、当時はリクナビなどの新規事業をつくるために莫大なシステム投資が必要な頃でしたから、銀行から150億円を借りるための金利交渉などをしているチームでした。学生時代に覚えた政治経済とか、ユーロ対円とかの知識がすごく役に立ちました。
西岡 へぇ。
杉本 財務部の先輩のお姉さま方は電卓を叩くのも、帳簿をつけるのも速いけど、「やっぱり借入金の管理は機械にさせたほうがいいな」と思って、担当役員に、「借入金を管理できるシステムをつくりたい」って言ったんです。そうしたら「君は、自分が細かい仕事をするのが苦手だから、そんなことを言ってるんじゃない?」と。で、「そうじゃない。今6人でやっている仕事を1人でできるようにします」と言ったら、「じゃぁ、予算をつけてやる」と仕事をやり易いようにボクを実務から外してくれたんですよね。入社2,3年目の僕に任せてくれるなんて立派な人でしょう。当時の財務担当の役員で山路さんという方です。その後、常勤監査役をやられて、つい先日、退任されたんですけれどね。とても感謝しています。それで、さくら情報システムから、アクセスを使った借入金の管理システムを買ってきて、リクルート用にカスタマイズするための作業を始めました。けれど、私にはシステムのプロではないので、全社システム化推進室という部門からエンジニアをつけてもらいました。その時一緒に財務のシステム化を手伝ってくれたのが、今マクロミルでシステム担当の役員をしている柴田です。プロジェクト開始の半年後にはシステムも出来て、膨大な数の借入金の管理が二人でできるようになりました。すると山路さんに、「今度はインターネットに関連した新しい部署ができる。このタイミングで異動しては、どうか」と誘われて。「ぜひ、新しい事業の立ち上げに参加しよう」と決意しました。異動先は新規事業開発室という部署で。インターネットに限らず、新たな情報誌をつくったり、新規事業を企画するところでした。ホットペッパーやゼクシィといった雑誌はそこで開発されたものです。
西岡 江幡さんのオールアバウトも?
杉本 そうですね。南場さんのDNAもそうですが、いろいろな出資案件や他社からの提携など持ち込み案件を受け付ける窓口で、金融の知識も役に立つし、事業立案や会社設立のために必要な知識も身に付くし、リクルート社内の役員とのパイプもできますからね。本当にいい経験をさせてもらったと思います。
西岡 最近のリクルートはコンサバな会社になりましたね。
杉本 当時は、失うものがないので怖いもの知らずでした。その頃、種を植えたものが今、少しずつ花開き始めています。けれど、同時にユニークな人がどんどん外に出ていってしまいましたね。ただ、私にとっては日々勉強することが多くて、面白かったですよ。
西岡 杉本さんにとっては、とてもいい会社でしたね。
杉本 リクルートも当時は世間相場から言えば新しいカルチャーの会社だったでしょう。そう考えると、私は子供の頃からずっと出来て20~30年くらいの比較的新しい組織で、自由闊達にやれてこられたんだと思います。


――― 父として、夫として ―――

西岡 いい話ですね。ところで、杉本さんって、どんなお父さんですか?
杉本 子供はまだ3歳ですが、夢や希望を持てるような子に育てたいですね。人間って、「夢や希望を持てて嬉しい」と感じるのは、選択肢が豊富にある時だと思うんです。たくさんの選択肢の中から自分が何か一つを選んで失敗したとしても、諦めがつくでしょう。それに、「次は、こうしよう」という、また新たな夢や希望だって生まれるじゃないですか。けれど、「これしかありません」って言われたら、不満だけが鬱積していきます。だから選択肢を拡げてあげたいと思います。
西岡 お子さんは男の子ですか?
杉本 はい、「開」と言います。自分で道を切り開いてくれと(笑)。
西岡 では、奥様にとって杉本さんはどんなご主人ですか?
杉本 あまりいい主人ではないかもしれませんね。私にとっては「会社(マクロミル)の方が先に生まれた子供で長男、息子が次男みたいなものですから(笑)。妻に言わせれば、「もっと、家庭に目を向けてくれ」という思いもあるんじゃないでしょうか。それでも、会社をつくったばかりの経済的な不安があった時には、妻がリクルートに残って働いてくれていました。ちょうど上場が見えてきたあたりに子供ができて、その後はリクルートを辞めて専業主婦をやっています。僕が未だに忙しく、夜の帰りも遅いことに一応の理解は示してくれていますが、戸惑いはあるでしょうね。でも、30代でヒマにしていて将来報われるわけがないでしょう。今は我を忘れるくらいに働かなくちゃいけないときだと、一応は理解してくれているようですが、正直なところは「もう少し家族のための時間をつくってほしい」と思っているのだろうと思います。
西岡 多少は反省していますか?
杉本 そうですね。子供のためにも。はい(笑)。
西岡 今日は杉本さんの知られざる一面に触れることが出来ました。この続きは杉本さんがモナコでのEOY世界大会に日本代表として出場されて、帰国されてから聞かせてください。本日はありがとうございました。

杉本 哲哉さんのProfile
神奈川県生まれ。1992年、早稲田大学社会科学部卒業後、株式会社リクルートに入社。就職情報誌営業部、財務部、新規事業開発室などを経て、2000年、インターネットを活用した市場調査(ネットリサーチ)を行う株式会社マクロミルを設立し、代表取締役社長CEOに就任。2004年東証マザーズに上場。翌2005年には、創業からわずか5年で東証一部へ市場変更。現在は、同社代表取締役会長CEO。

2006年6月7日水曜日

日本大使館から来ましたー!

ある国の首都で、お土産を買うために大変人気のあるお店に行きました。その時のことです。小さな店内には他にも日本人が二人、全部で4人の日本人が優しそうなご主人の説明を聞きながら楽しく試飲をさせてもらおうかとしていた矢先です。入り口がガラガラと開いて、「日本大使館から来ましたー!、お願いしまーす」と言って(英語で)、若い日本人の男が一人の客を伴って店に入ってきました。我々に応対する主人を「いつも済みません。試飲をお願いします」と言って手招きし、戸惑っている店主に声高に次々と注文を付ける若い大使館員の態度は横柄で、先客の我々4人はまったく眼中にないという態度です。この圧倒的に横柄な態度と声高な注文に店主はすっかり我々を忘れてしまって、「あれを試飲させろ」、「これを試飲させろ」の矢継ぎ早の注文にうろうろ、自分たちの試飲を忘れられてしまった我々4人はただ呆然となってしまいました。若き大使館員は連れてきた客に試飲を勧め、待たされている我々を尻目に得意満面です。 悪代官みたいなヤツですね。大使館の役人は我々国民に優先してサービスを受けることが出来ると信じているような様子でした。 さて、あなたなら、こんなときどうします?

もちろん、黙ってはいないでしょう。ボクも黙っては居ませんでした。 「ちょっと、日本大使館の方とやら。私たちは商品も決めて、試飲をさせて頂こうとしていました。あなた達は後から来たのだから順番を守って下さい」とビシっと言いました。店主にもこちらの言い分を伝えてこちらへのサービスを継続してもらったことは当然です。店主も気になっていた様子で直ぐさま我々のところに来てくれて丁寧な説明を始めてくれました。収まらなかったのが件の大使館員です。しばらくはイスに腰掛けて床を見つめていましたが、しばらくすると、立ち上がってボクのところにやって来て、「どういう意味ですか。もう少し詳しく話を聞かせて下さい」だって。この男は人にこんなことを言われたことがないのでしょうね。上司の教育が出来ていないというか、いや、部下から察するところ上司もきっとこんなモノなのでしょうね。「大使館員だから優先的にサービスを受けるべきだという法はないでしょう? むしろ公僕として、国民に奉仕する立場でしょう。少なくとも順番は守りなさい」と優しく(?)諭して上げました。黙っては居たけど理解できたのかなー???

2006年6月5日月曜日

大企業がこんなんでいいの?

この大企業はどこかおかしいよ 私の本職はVC。技術力のあるベンチャーをどんどん大企業に紹介してwin-winでの協業が成立するように指導することを仕事のメインに置いている。
なぜなら、ベンチャーは一般的に言って技術力はあっても
、  
  • 販路を持たない  
  • 量産の能力/ノウハウがない  
  • ブランドがない  
  • 宣伝・広告費がない  
  • 営業体制がない  
  • 与信がないから適正な在庫を持てない  
  • 二の矢、三の矢を番える(次の商品開発)ための研究開発体制がない  
  • 人材がない、時間がない、待てない、無い、無い、無いモノづくめ

なのだから、大企業がその技術を正しく評価してOEMで採用をしたり、代理店として販路を提供したり、Co-Brandingで知名度を提供したりという協力が不可欠である。このことは大企業が損をすると言うことではない。リストラで開発分野を限定したり、開発体制を縮小した大企業が必要な技術をすべて自前でやっていくことは不可能であるし、効率的ではない。いまは外部の技術を如何に活用するかが問われている。

それなのにだ、最近こんな大企業を見付けた。紹介した技術は特異で用途も広い。なんでこんなコトが出来るのかと訝るほどの特異技術だ。しかも、某大企業がその技術を高く評価して採用し、市場が出来つつある。実績が出つつあるのだ。ただし、そもそもの技術力に比べてその用途は限られているので、もっと広い範囲に展開させようと大企業への紹介を進めていた。その途上で、ある某大企業の登場となる。この会社の開発部長は、そのベンチャーの技術そのものは高く評価した上で、しかも自社への応用範囲が広いことを認めた上で、ベンチャーが提示したデモ機の完成度にケチを付けた。こんなチャチな実装では実用上のトラブルにつながりかねないという。その理由でこのベンチャーの技術を採用することを否としたのだ。

待って下さいよ。量産のための技術開発は大企業側の責任でしょう?そんなことは大企業の一番得意の技術でしょう? 自分発の技術でないモノを、市場が形成され出すとマネをして、高度の量産技術でコストを下げて薄利多売で売りまくるのは大企業の得意だったはずです。技術そのものが良ければ「量産技術は任せておけ」というのが大企業のはずだ。ところが、上の例では「どんなに良い技術でも、量産技術まで確立できてない技術は危なくて採用できません」と言っているのです。大丈夫ですかね?この大企業は。

2006年6月2日金曜日

イスラエル見聞録-2

②ユダヤ教の話からでちょっと抹香臭くなったが、イスラエルは実は花の国である。原種の花が2000種近くも発見されており、その数はイングランドの2倍近くだという。下の写真は原種のケシの花(ポピー)である。地中海とレバノンとの国境からともに10数キロ入った小さな村Yarkaで見付けたポピー畑。もちろん栽培されたものではない。写真では表せ切れないほど一面にオリーブの木が茂り、その下にポピーが人知れず咲き乱れていた。

ただし、交通標識がヘブライ語だけになってしまうこの小さな町にレンタカーでたどり着くのは容易ではなかった。ガソリンスタンドやオフィスやいろんなお店に立ち寄っては地図を片手に方向を確認しながら、それでも大過なくたどり着きました。そこに待っていたのはこの村に住む大家族一家、美味しい伝統的な料理を家族と一緒に頂いて素晴らしいランチになりました。料理は美味しいし人情は厚いし、イスラエルの別の一面を発見できました。食後はご主人夫婦が私たちを上の写真のポピー畑に案内してくれました。このポピー畑は今回の旅のベスト5の一つです。ここから一路ゴラン高原に向かう道路は車の数も少なく、家内がハンドルを握って夕刻前にゴラン高原の中のキブツに到着。キブツとは同じライフスタイル、人生の意義を持つ同士たちが生活の基盤を一つにして村を形成する集団と言えばいいのでしょうか、日本の山岸会がよく似た存在だと思います。ここのホテルを根城に周辺をトレッキングしたり、花畑を散策したりとイスラエルの自然を満喫することが出来ました。下のスケッチはその時の印象を切り取ったものです。花または花の山道を歩いたり、スケッチしたり弁当を食べたり2時間ほどのトレッキングでした。イスラエルらしいなーと思ったのは、遠足に来ている高校生や中学生など子供たちの列の後ろにライフル銃を肩に掛けた引率者が必ず付いていること。その銃は鳥か獣を撃つためですかと試しに聞いてみたら、For security.という答えが返ってきた。それにしては銃が旧式すぎて敵に襲われても応戦できなさそうとも思ったが。

Baniasの泉続く花盛りのトレッキングコース弁当はホテルの朝食の帰りに調達する「パンとオリーブオイルとチーズとトマト」。定番ですがこれは美味しいですよ。下のスケッチは、3月に数百万羽の渡り鳥が羽を休めるというフーラ湖のスケッチ。スケッチしているとみんなが見に寄ってくる。高校生の一段が「スケッチブックの前の方の絵も見せてくれ」というので見せてやると、「Beautiful!」と大騒ぎ。肩を組んで写真を撮ったりして楽しんだ。スケッチの楽しみの一つはこうして現地の人たちと仲良くなれることである。

ゴラン高原の自然を満喫して一路南へ、イエス・キリストが数々の奇蹟を行ったと伝えられるガリラヤ湖に遊びました。今回の旅程の中で唯一シトシトと雨に降られたのですが、雨にむせぶガリラヤ湖は特別に美しく、出発前に読んだ旧約聖書の話を彷彿とさせる光景でした。聞くところによれば、この季節には雨は降らないとのことで、我々を歓迎するためにキリストが奇蹟を起こしてくれたのかも知れません。 ここから宗教の町イエルサレムに向かいましたが、その時のお話しは前回の見聞記でお話ししました。それにしてもイエルサレムは見るところの多い、奥深い素敵な町です。前回に紹介した嘆きの壁で祈り続ける伝統的なユダヤ教徒のスケッチをここでもう一枚。

イエルサレムのOld Cityは宗教的に重要な地だが土産物屋が軒を連ねる観光地。商店街の靴屋に入ってサンダルを値切って買ったり、美味しいフレッシュなオレンジジュースを飲んだり、歩き回った。一つの問題は土産物店の商品に値札がないこと。サンダルを買うときは店主がいろいろ上手に「あなたには特別サービスだ」と言ってくれるが値札がないのだから怪しいモノだ。「値札が無いのはフェアーじゃない」と店主に文句を言ったら、たまたま居合わせたフランス女性たちが僕に同感だとウィンクをしてくれた。ほとんどの店に値札がない。まあ騙されてもと2000円位に値切って買ったサンダルは旅行中も旅行後もなかなか履き心地が宜しい。Old Cityで美味しい店を見付けてランチを食べた。たまたま立ち寄ったのだが、ボクは美味しい店を見付ける天賦の才能を持っているらしい。いつもこの才能がすこぶる役に立つ。 イスラエルはアジアとアフリカの接点としてつねに他国からの攻撃を受け迫害をされ続けた歴史の国だ。イエルサレムの最終日はナチス・ドイツのユダヤ人迫害の歴史を伝える博物館で過ごしたが、重かった。一人の狂気が大多数の人間から理性を奪い、国家を狂わせ、取り返しの付かない蛮行に追いやることができる。この人間の弱さに頭うなだれた。 イエルサレムを終えると死海へ。車の中から死海が見えたときには余りにも水の色が美しくてビックリした。薄い水色から深い紺碧まで、青色のグラディエーションが目に飛び込んできた。ここは海抜-400メートル、世界で最も低いところにある湖である。あくまでも青い空の下に広がる湖はいつまでも見つめていても見飽きぬ美しさだった。有名なエン・ゲディのキブツの中にあるホテルに泊まって死海を堪能することにした。いろいろと周辺で遊んでホテルに到着したのは4時頃、部屋に落ち着いてから「死海で浮かぼう」と定められた湖岸に着いたら二人の係員がホースで水を撒いて片づけている。あれっ変だなと思いながらも湖に入ろうとすると、It's closed.と言うではないか! 

以下はその時の会話:
Ikuo: Is it closed?
Staff: Yes, it is closed.
Ikuo: At what time do you close?
Staff: At 5:30pm.
Ikuo: 5:30? But, what time is it now?
Staff: It's 5:33.
Ikuo: Only 3 minutes late? Oh my God! We came here all the way from Japan. It is far, far away from here, you know? Why don't you let us enjoy paddling even for 5 minutes?
と聞くと係員がアゴを湖の方へしゃくって「入れ!」と言う。嬉しかったねー。係員の片付けは結構時間が掛かって、その間ずっと遊ばせてくれた。ありがとうさん。明くる日は余裕を持って死海に遊んだ。色の黒いボクは余り日に焼けると恥ずかしいから、カーボーイ・ハットの上に日傘を差してプカプカ浮いていたら、ヨーロッパ系の観光客から笑われてしまった。もともと死海は海抜-400メートルで空気の濃度が濃いから紫外線を通さず、日焼けをしないと言われている、が、念のために重装備であった。日傘の下のカーボーイ・ハットの下に色白の美肌ならぬ真っ黒の顔、こっちの方が恥ずかしかったかなー? 北欧からの連中は日頃の日光不足を解消するため懸命に日に焼けているが、ホテルで隣り合わせる男たちの脚や腕は重度の火傷のように物凄い水膨れである。よくやるよ!死海に関して一つご注意を。死海では泳ごうとしてはならない。塩分濃度が25%だから水が目にはいると物凄く痛いのだ。また、間違っても死海には飛び込んではならない。飛び込むと比重が大きいので頭や顔面を強打して重傷や死ぬことまであるらしい。死海を終えてリゾートのエイラットへは200キロほど走る。給油したガソリンスタンドで念のために4輪のタイヤをチェックして回ったときに左後方のタイヤの空気圧が足りないことに気付いた。よく見ると大きな釘が刺さっているではないか。気付かずに走り続けていたら炎天下の砂漠の中の道路でタイヤ交換をしなければならないところだった。クワバラクワバラ。ところが、釘を抜いたタイヤのチューブを修理してくれと言うと「道具がないからここでは出来ない。イエルサレムに行けばできる。エイラットに行くって? 途中に出来るところはないと思うよ」とのことだった。レンタカーのインフラは未だ不十分だ。途中、ローマ帝国に滅ぼされたときの最後の砦マサダや奇岩で有名なティムナパーク(下のスケッチ)


に立ち寄って無事に到着したエイラットは紅海を臨む海のリゾートである。ホテルの窓から右にはエジプト、左にはサウジアラビアとヨルダンが見える。写真はホテルの部屋からの眺望。ホテルのプライベート・ビーチで泳いで帰る度に腰に拳銃を付けた係員が部屋番号と氏名をチェックする。さすがイスラエルという印象。やってもらった方がもちろん安だから異存はない。

2006年6月1日木曜日

素人に分かり易く説明できないようじゃ

素人に分かり易く説明できないようじゃ、お前が分かっていない。

ホンダの創立者、本田宗一郎氏はこういって良く部下を叱咤激励したという。@MBAの塾長代理をして頂いているホンダの前企画室長小林三郎さんが講義で話された。

VCの私は毎日のようにベンチャー経営者の技術やビジネス・モデルの説明を聞く。その時につくづく思うのは「他人(ヒト)に分かり易く説明できないようじゃ、あんたも分かってないんじゃない?」ということである。
自分がよく分かっている人の話は実に分かり易い。難しいことが容易く聞こえる。ところが、自分がよく分かっていない人に限って、不必要に難しい専門語を多用し、容易いことを難しく話すものだ。

2006年5月26日金曜日

My Best Jobをつねに意識して仕事をしよう

社会人としてやってきた仕事の中で「自分のベストジョブ」と思える仕事内容を文書にしてまとめる。そして塾生同士でグループ討議をする、それがMy Best Jobである。私が主宰する丸の内ビジネス・アカデミー(@MBA)で金井神戸大学教授にご伝授頂いたもので、毎期の初めに私がモデレータとして一日研修を実践している。
いつ、どういうビジネス環境の中で、どういう職場で、どんな立場で、どんな成果を上げたのか、協力・支援者は誰だったか、非協力・反対者は誰だったか、その反対をどう乗り越えたのか、彼らをどうして支援者に変えたか、と言うことを明記して来てもらう。これは宿題だ。
研修では、塾生(平均年齢39歳のミドル)たちは朝から晩まで一日掛けてグループ討議でみんなの経験を共有する。とくに反対者とどう対処し、成功に漕ぎ着けたかの経験共有を大切にする。

もちろん、他人の経験を共有しても環境の違う職場で、そうそう簡単に参考に出来るわけではない。5期まで毎期続けているこの研修で私がもっとも強調するのは、「これからはMy Best Jobを毎日意識して仕事をして下さい」ということである。

もし、会社に入ったときから、「10年後にMy Best Jobを書かなければならない」と知っていたら、これまでの働き方が変わっていたかも知れないではないか。10年後の成果を意識していたら、毎日を無為には過ごせないはずだ。
この仕事を「My Best Jobにするぞ!」という意識・決意があれば、もっと頑張れたはずだ。その意識を塾生たちに植え付けたいと考えている。
みなさんもやりませんか?

2006年5月24日水曜日

参画意識が重要だ

日本のように経済的に恵まれた社会では、社会人予備軍の学生たちに緊張感がない。多くの学生が「この社会、とにかく何とか食っていけるだろう」とタカをくくって、日々、無為に惰眠・惰食を貪っている。
その大学で講義をすることが多い。社会人を対象とする大学院やMBAコースなどの特別講義の場合は受講生の目が光っていているし、多くの質問が飛んで緊張感のある時間を共有できて楽しいのだが、学部学生に通年で毎週講義をするとなると大変だ。何よりも毎回90分間、学生たちに緊張を保って講義に臨ませるのは並大抵のことではない。容易に想像して頂けるだろう。

ところが、先日、朝9時前に大学構内を教室に向かっていたとき、「先生」と声を掛けて一人の男子学生が近付いた。「今日の宿題の発表を僕らにやらせて下さい」と言う。実は、先週出した宿題が「セブンイレブンの成功要因を分析せよ」であった。3名くらいのグループで実際にお店に行って自分の目で分析して報告するのが宿題だ。今どき、自分から発表をやらせて欲しいと申し出る学生が居ることを知ってびっくりした。
教室に入ってその日の発表グループを指名するのだが、多くの学生が良くやっていて驚いた。もちろんインターネットで調べたというお座なりのデータもあるが、その上に自分の目で調べたり、考えたことを加えている。ちゃんとパワーポイントで効果も付けてプレゼン資料を用意したグループも結構いる。友達の発表にも質問が飛ぶ。何が起こったのか?

その秘密が参画意識である。私の講義は参加型だ。「全出席でも発言のない学生には単位をやらない」と最初に宣言してある。毎回発言学生の名前を記録するのは面倒だが学生に協力させている。毎回宿題を出して、研究結果を次回に発表させる。発表者は教壇に上がってマイクを使って発表するが、発表の仕方、態度にも注文を付ける。宿題の成果、発表態度、質問の中身が成績を決める。
だから質問が多いのだ。これは参画意識を上げるためのインセンティブ。
大学は社会に出る準備であり、会社に就職するとグループで仕事をさせられることが多いから教室でもグループ研究をさせるし、発表の仕方が大切だからそれも教育している。こちらはプレゼンのプロだから注文も厳しいが、それでも懸命に付いてくる。
50名ほどの学生が居眠りもせずに熱心にやっている秘密、それが参画意識とインセンティブだ。一方的に知識を伝達されるのでなく、自分たちが考えたことを壇上に上がって、発表し、質問に答える。やればヤルほどいい成績が取れる。それが気に入ったようだ。

2006年5月12日金曜日

イスラエル見聞録-1

連休を利用してイスラエルを旅してきた。
ドンパチと銃声の絶えない国かと思っていたイスラエルに敢えて旅をしようとした動機は、イスラエル大使館の元の経済公使レビー・エラッド氏が「西岡さん、一度イスラエルにいらっしゃい。こんな危険な東京と比べるとイスラエルはもっとずっと静かで安全ですよ」というジョークに起因する。東京が危険だと言われる理由は主として「交通事故が多いから」だが、凶悪犯罪も頻発する今日この頃の日本である。しかもイスラエルはハイテク・ベンチャーのメッカであるから、VCとしてはいつまでも怖じ気づいているわけにもいかない。今回はテルアビブ(地中海に面する空の玄関)、ガレリア湖周辺、ゴラン高原、首都エルサレム、死海、紅海とレンタカーで550kmを疾駆してイスラエル探訪をしてきた。商売を離れて文化的な面からの見聞録とする。

① イスラエルは何と言っても宗教の国である。旧約聖書を拠り所とし、キリストをメシアとして認めないユダヤ教と、キリストをメシアとして新約聖書を拠り所とするキリスト教の違いなど、旧約聖書の易しい解説書などを読んで予習したが宗教の問題は常に複雑である。ここではいつものように楽しい見聞録に徹して記録するが、やはり特徴的なユダヤ教から触れることとする。

ユダヤ教徒も宗派によって帽子の形や服装に違いがあるが、オーソドックスなユダヤ教徒は白のカッターシャツに白いチョッキを付け(両方の腰のところにヒラヒラが付いている)、つねに真っ黒の帽子に真っ黒のスーツ(グレーの縦縞のスーツや丈の長いものなどもある)を纏っている。年中この姿の信仰心の厚い宗派があり、エルサレム市内のオーソドックスなユダヤ教徒が住む小さな町では、町中の人たちがこの姿である。両方の揉み上げを永く伸ばし可愛らしくカールさせている。結構熱い真夏でもこの姿は変えないという。揉み上げをアップすると中央の男性のようになる。何となく可愛い。右はオーソドックスなユダヤ教徒の町の女性のスナップである。



彼らは常に帽子を離さない。頭を隠すことが聖なる者への尊敬を表すからだ。



このスケッチで右は黒いハットを被った若者、ハットの下には左の男の頭にある小さな帽子がヘアピンなどで固定されている。小さな帽子は黒だけではなく白黒の縞模様やカラフルなものもある。エルサレムのOld cityにある有名な嘆きの壁では、帽子を被らないボクが注意されたが、カーボーイ・ハットを載せればOKだった。日焼け帽子のカーボーイ・ハットでは尊敬を表さないのではと一瞬心配したが、とにかく頭を隠せばよい。次のスケッチは嘆きの壁でお祈りをするオーソドックスなユダヤ教徒である。壁に向けて頭を打ち付けるように揺すっている。こうして、紀元前にローマ帝国に滅ぼされた当時の苦しみを思い、祖国統一への思いを新たにすると言う。


これを遠景にすると次のスケッチとなる。



イスラエルが美しい国だという話は次回に譲る。
帰国して成田空港に到着したとたんにいつもの落胆がおそった。
成田国際空港のトイレには手洗いの後のペーパー・タオルも電動乾燥機もないのだ。
イスラエルではどんな田舎に行ってもトイレにはどちらかが備え付けられていた。
以下、見聞録-2に続きます。

2006年5月1日月曜日

リンク追加のお知らせ

みなさんと色々情報を共有するために過去日経ネットに連載していた
『西岡郁夫の手紙』もリンクへ追加しました。
ご興味があればどうぞご覧下さい。

2006年4月24日月曜日

西岡郁夫の起業家インタビュー 第3回 『坂本 孝さん』

ブックオフコーポレーション株式会社 代表取締役社長 坂本 孝さんはEOY-JAPANの2004年度日本代表である。ご略歴は文末にご紹介しました。

――― 会社説明会 ―――

西岡 まずは、人を育てる名人の坂本さんらしいお話が聞きたいですね。
坂本 実は、明日、大阪で「坂本孝 就職活動講座」という就職セミナーがあるんです。普通、この手のセミナーには、「ブックオフコーポレーション」の企業名が冠に付くのにね。明日は、私がこれまでいろいろな学生と接してきて感じたこと、気付いたことをお話するつもりです。でね、そういう場に行くと、「会社説明会へは何回行きましたか?」って聞くんです。「20回以上」と答える人が出てきたら、「そろそろ今年も就職戦線のピークにきたな」と思うんですよ。それが東京だと、3月か4月でピークを迎えるのに、北海道だとゴールデンウィークが明けた頃なんですよね。桜前線みたいですよ。ところで、当社は今年16期目を迎えますが、うちの会社説明会は必ず私がスピーチすることにしているんです。


西岡 へぇー、人事担当役員じゃなく坂本社長自らですか。
坂本 会社説明会で社長が話をしないのは間違っていると思うんですよ。人生の中で一番大切な選択をしようとする人に対して、社長が本音で語らない会社なんてヘンでしょう? 
西岡 確かに、人事部長なんて普通コンサバティブな人のサンプル みたいだから学生の心を打つ訳がないですよね。
坂本 ああいう場で話す人は、笑っちゃいけないんでしょう? きっと、賢そうに権威があるようなフリをしていなくちゃいけないんでしょうね。
西岡 そういう人が、「ウチに来い!」と言っても、ちっとも迫力ないのにね。
坂本 私は「ブックオフには人事部なんてつくらない」と宣言しているんですよ。というのも、うちは店舗が主役の商売でしょう。だから、人事権はすべて現場の責任者に与えて、現場を知らない人事部の人間には人事に関して「あーだ、こーだ」とは言わせません。社員のキャリアパスに応じたジョブローテーションを組んで成長させていこうと思っていますから、人事部などなくても十分にやっていけるんですよ。
西岡 誰が採否を決めるんですか?
坂本 会社説明会で私がスピーチした後で、入社数年目の若手社員に「つらい」と思った体験や本音を吐露させるんですよ。すると、半分くらいの人たちが「そんなにつらい会社なら、止めておこう」となるわけ。西岡 なるほど、そこでやる気のない奴をスクリーニングするわけですね。坂本 そうです。その後のグループ面接や個人面接に、僕や常務が立ち会うことはありません。そこは、現場の責任者である店長に任せて、「1年後には、立派な店長になりそうだ」と思った人を最終の社長面接に残すのです。
西岡 ほほぅ。ということは、店長が「この人なら、自分が成長させることができる」という判断をした人を選ぶわけですか。
坂本 そうです。しかも、うちの採用試験には「成績証明書の提出」も、「筆記試験」もありませんから、学生のウケがいいんです(笑)。『東洋経済』や『週刊ダイヤモンド』などで、よく「入社したい企業ベスト500社」みたいな記事があるでしょう? うちは250位くらいに入っていますからね。
西岡 それは面白いですねー。そもそも僕は、大企業の「人事部主導の採用方式」は間違っていると思うんですよ。なぜなら、コンサバティブで事業責任のない人事部が採用すると、事業に貢献できそうな人よりも安全な人を取ります。安全策を優先するので学歴を尊重するわけですよ。つまり、有名大学卒を採っておけば、後で何か問題があっても自分が責められないという発想です。インテルは、ビジネスユニットの長が予算の範囲で自分のビジネスに適切と判断した人材を採用しています。だから学歴を見ません。人事部に似たようなHR(ヒューマンリレーション)という部署はありますが、面接の時間と場所のセッティングをしてビジネス長に引き合わせると退室します。ところで、坂本さんがそんなふうに人事の仕組みを考えるようになった原点はどこにあるのでしょう?
坂本 僕は、学校を出てから今まで、自分の判断基準という「ものさし」以外で会社勤めをした経験がないんですよ。だから、会社に総務部や人事部があるということすら知らなかったんですよ。で、「会社の最適化」を考え続けていたら、今のようなカタチになっただけ。
西岡 なるほど。会社の仕組みに関する旧い既成概念がなかったんですね。企業や組織に対する先入観を持たずに、正しいと思う道を進んできたら、今のようなカタチになった。
坂本 そうです。

――― 創業のきっかけ ―――

西岡 それにしても、坂本さんはずっと中古ビジネスをされていますが、なぜですか?
坂本 そもそも私は慶応大学を卒業するとき大手広告代理店へ入社するつもりでした。ところが都合で、父が経営していた精麦会社に入って、経営を手伝うことになりました。当時は「貧乏人は麦を食え」なんてことが盛んに言われていた時代で、なぜか会社の業績が伸びて、大きな勘違いをしてしまった。「自分には経営能力があるんだ」ってね。
西岡 いい勘違いでしたねぇ。
坂本 それで、オーディオショップを始めたんです。トリオ、サンスイ、パイオニアが一斉を風靡していた時代です。5年間で莫大な借金をかかえて、高利貸しにまで手を出してしまった。年利72%ですよ。それで、どうしようもなくなって、地元の有力者にお願いして、500坪あった実家の土地を買ってもらったんです。それから、借金を返済して余ったお金で音楽教室を始めました。本当は楽器店をやりたかったんですけどね。楽器店というのは、うまくビジネスしていますよね。彼らが音楽教室をつくるのは楽器の見込み客をつくるためなんです。一人の客にオルガンを販売する、しばらく経つとその客はピアノやエレクトーンに買い換える。しかも、腕を上げるために音楽教室に通いながらグレード試験を受ける。ただし、試験に合格するには、それに対応したレベルの楽器を使って練習しないといけない。で、合格した人には、結婚式場のエレクトーン奏者とか、音楽教室の講師とかいった就職の世話までするんですからね。お客さんのほうは、ついつい買ってしまうわけですよ。こんな上手い話ってないでしょう?しかし、資金が少なくて中古ピアノの販売を始めました。
西岡 中古商品はメーカーの価格コントロールが利かない領域で、全部、自分たちで価格を決められるんでしょう。
坂本 中古には業界規正法のような規制が一切ないんです。新品は石油の元締めのようなもので、メーカーが一番えらい。再販制度のある出版業界と似ているでしょう? だから、古い体質の業界ほど中古ビジネスにチャンスが広がるんです。
西岡 メーカーコントロールが強い業界こそ中古のビジネスチャンスあり!
坂本 そうそう。
西岡 それで、神田の街に並んでいるような古本屋を作ったんですか?
坂本 そうしようと思ったのですが、「古本屋のチェーン店をつくるなんて、言語道断だ」と言われました。
西岡 ということは、最初からチェーン展開するつもりだったの?
坂本 そう。30店舗はつくろうと思っていました。ところが、変人扱いされちゃって(笑)。古本屋になるには、まず目利きができなくてはならないんですよ。各店が仕入れた古本を組合で供出し合って、組合のセリで自分の得意のジャンルを買うという目利きが要る構図です。当時、神田・駿河台にある古書会館というところで行われているセリに出たことがあるんですが、実物も見ずに目録で入札なんかできっこない、こりゃまいったと。
西岡 へぇー。それで、目利きをせずに店員さんが簡単なルールに従って買値も売値も決めるという今のようなビジネスモデルになったのですかー。
坂本 そうです。それで、30店舗くらいになったときに、また神奈川県の古書組合に入りたかったのですが、門前払いされました。
西岡 どうしてですか?
坂本 「あなたたちは、目利きでない。雑本を売っている」と。
西岡 雑本!?
坂本 そう。彼らは、小説やコミックのことを「雑本」と言うんですよ。だから、「本の価値を知らないような人に、組合に入られては困る」と。ところが、最近になって風向きが変わってきました。「うちの組合員は、ブックオフを悪く思っていませんよ。なぜなら、私たちの主な仕入先はブックオフですから」と言われました。 
西岡 古本屋が、ブックオフに本を買いに来る?
坂本 たとえば、手塚治のサインが書かれた初版本のような希少本でもブックオフにはたとえば105円で売っています。うちの単純なルールでは「書き込みがあるのは汚くて評価できない」ということになります。有名作家のサインだろうが、何であろうが、それがブックオフの価格ルールです。だから、ブックオフの105円コーナーには、お宝がいっぱいあるんですよ。それを狙って古本屋が来ます。中には、105円で仕入れた本をオークションに出して、高く売って、生計を立てている人までいるらしいですよ。
西岡 へぇー。それは驚いた!中古の本を使っていろいろなビジネスが考えられそうですねぇ。
――― 人のつながり ―――

坂本 話は変わりますが、先日のEOYのイベントで西岡さんのパネルに出られたホーブの高橋さんが北海道に誘ってくれましてね。タリーズの松田さんも一緒に、西岡さんも行きませんか?
西岡 いいですね!ちょうど僕も、面白いことをやっている各地の中小企業や工場を見て回わろうと思っていたところです。それにしても、高橋さんっていい方ですよね。
坂本 EOYのモナコ大会へも、私じゃなく高橋さんが行くべきだったと思うんです。1年に1回しか自分たちの成果を試すことのできない農業で頑張るようなベンチャーがたくさん出てくると、日本でも自給自足が可能になりますしね。
西岡 まして、日本は減反制度なんていう馬鹿な政策があって農業を大切にしてこなかった。ちっぽけな役人の馬鹿な考えで日本は食料の自給自足も出来なくなりました。農業のベンチャーは貴重な存在ですね。オーストラリアなどでは、農業の工業化が進んでいて、土を使わずに農作物をつくっていますが日本は農業後進国になってしまいました。
坂本 米の工場が世田谷にあってもいいですよね。駒沢公園のあたりとか。

――― 趣味 ―――

西岡 ところで、坂本さんの趣味は何ですか?
坂本 学生時代は、男声合唱団をやっていました。
西岡 そうそう。坂本さんとは、カラオケで「白いブランコ」をハモルんですよね。僕が「白いブランコ」を歌おうとしたら、坂本さんが「それは僕の歌だから下を歌う!」って(笑)。
坂本 三枝成彰さんや羽田孜元さんが六本木合唱団倶楽部というのをやっているでしょう。僕も、銀座合唱団をつくろうと思って、小椋桂さんに「ぜひ、タクトを振ってください」とお願いしたいんですよ。彼を引っ張り出して、ここの3階で練習しようと、グランドピアノまで入れちゃったんですよ。
西岡 僕もメンバーに入れてくださいね。
坂本 もちろんですよ!
西岡 最近の十八番は、さだまさしの『風に立つライオン』でしょう?
坂本 そう。「昔、君と見た千鳥が淵の夜桜が恋しくて・・」という春の歌。実に、いい歌詞なんですよ。
西岡 さだまさしの曲って、キー高くて難しいですよね。谷村新二さんの『群青』も、よく二人がバッティングしますよね。
坂本 そうそう。西岡さんは、尾崎豊さんの『アイラブユー』を狙ってるんでしょう?知っています(笑)。

――― 夢 ―――

西岡 最後に、坂本さんの夢を教えてください。
坂本 “本”と“中古”というキーワードで展開してきたビジネスノウハウを海外で成功させたいんです。ニューヨーク、パリの店では、日本から持ち込んだ本と現地で仕入れた日本語の本を売る、というモデルはすでに成功させたので、こんどは「英語館」と「フランス語館」をつくろうと考えています。こういう店は、まだ海外にもないですしね。
西岡 いけそうですね。
坂本 でしょう? で、隣には、吉野家とCOCO壱番かなと。コーヒーもそうだけど、海外から持ち込まれたものばかりが目立ちますでしょう。日本で培ったノウハウや文化を海外へ持ち込んだら面白いかなと。
西岡 日本から発信するビジネスイノベーションですね。米国は新刊の規制が少ないから、新刊でも安く売っているのはリスクファクターですね。けれど一方で、海外の人たちのほうが日本人より古いものを大切にしますし。これは、うまくいくかもしれませんね。
坂本 それで、タリーズの松田さんにも「知恵を貸してください」って相談したんですよ。うちと組むのは、スターバックスじゃないでしょう?
西岡 それは面白い!そのためにも、6月の北海道行き、ぜひ決行しましょう!人と人とのつながりが、また新しいつながりを生んで、どんどん日本を良くしていかないと。私たちには、そういう責任がありますよね。今日はありがとうございました。


坂本 孝さんのProfile
山梨県甲府市生まれ。1963年、慶応義塾大学法学部卒業後、父親が経営する精麦会社に入社。その後全農などと配合飼料会社を設立。取締役として経営に携わる。1970年にオーディオショップを開業するが、経営に失敗。会社清算後、中古ピアノの販売を手掛ける。1990年、中古本販売のBOOKOFFを開業。翌1991年、ブックオフコーポレーション株式会社を設立し、社長に就任。現在に至る。

2006年4月21日金曜日

マナーについて思うこと

今朝、出社前にスポーツジムで一泳ぎしてきた。朝早く起きるのは大変苦痛だが、運動をした満足感と、泳いだ後に入る準天然温泉の心地よさは格別である。あー、気持ちいいナーとタオルを頭の上に置いて目を瞑った瞬間、顔にバサッと冷たい水が掛かって飛び上がった。エッと体勢を立て直して顔の水をぬぐい、何が起こったのかと見ると、若い男が立ち上がってシャワーをかぶっている。立って頭や顔に強い水を掛けるので、身体で受け止められなかった水が後ろにバァーッと飛んでくるのだ。オオッと言う間もなく次の瞬間、お股を開けて股間に水を掛けだした。股間から下の空間に注がれた水は遮るものもなくバァーッと飛んで顔に注がれる。想像できますか? 知らぬ男の股間をかすめた水が顔に掛かったのですよ。自分のすぐ後ろに湯船があることは分かっているのにねー。もちろん、「マナーが悪い」と厳重に注意をしたが、まだ、自分の顔が汚く感じる。助けてー!

そう言えば、先日はこんなこともあった。風呂から上がってさっぱりとして、バスタオルを巻いて鏡の前で黒髪(?)の手入れをしていると、隣の若者は素裸で鏡の前のイスにあぐらをかいて、下の方のヘアーをドライヤーで乾かしている。どうどうとした態度だ。右手にドライヤー、左手で恥毛をサワサワと掻き分けながら温風を送っている。ドライヤーが直接恥ずかしいヘアーに当たらないのならマナー違反ではないのかな? と思っていたら左手が器用に動いて、抜けたヘアーを摘んで床に捨てた。これは明らかにマナー違反でしょう。でも、これは言うのも恥ずかしくて注意は出来なかった。

まあ、行儀の悪いのは若い人たちばかりじゃないが、お互いちょっと注意をしましょうや。

2006年4月14日金曜日

西岡郁夫の起業家インタビュー 第2回 『松田公太さん・高橋 巖さん』

お約束をしたEOY JAPAN第1回 [リアル・コミュニティ]第一部パネルディスカッションの詳録を当日ご出席頂けなかった方々のためにアップします。

パネリスト:
松田 公太
フードエックス・グローブ(株)代表取締役社長(EOY JAPAN 2002セミファイナリスト)
高橋 巖
(株)ホーブ 代表取締役社長(EOY JAPAN 2005ファイナリスト)

西岡 12月から5月までしか収穫できないイチゴを年中収穫できるように品種改良をして、収穫の端境期にイチゴを食品業界に届けるという事業で成功をされているホーブの高橋巖さんをご紹介します。どうぞ宜しく。フードエックス・グローブの松田公太さんは、あのタリーズコーヒーをアメリカから日本へ持ってきた張本人です。松田さんの『すべては一杯のコーヒーから』(新潮文庫発行)は面白くて1日で読み終えましたよ。コーヒーが美味しいのは当然でしょうが、タリーズはサンドイッチなど食べ物もおいしいね。それがスターバックスとの大きな違いですね。世界のタリーズにはない、T’sアイスクリームも魅力的です。ところで、松田さんは、なぜ起業する気になったのですか?
松田 最初に「起業しよう」と思ったのは、中学生の時です。実は、私の父は魚介類を扱う水産会社のサラリーマンで、小学校から高校までずっと海外で暮らしておりました。その時期に、日本の食文化が海外では間違った捉えられ方をされているということを知り、ショックを受けたのです。例えば、私の家では、毎日“さしみ”を食べていたのですが・・・
西岡 お母様が、さしみ好きだったと聞きましたが?
松田 それが、母が父と結婚した理由でもあります。もともと母は寿司が大好きでした。で、寿司職人と結婚しようと思っていたのに、いい相手が見つからなかったので、セカンドセレクションだった魚屋の父と結婚したというわけです(笑)。それはともかく、ある日、学校の友だちが家に遊びにきたので、母が料理を作ってくれたのです。ところが、テーブルに置かれた“さしみ”を見て、友だちは一斉に「気持ち悪い!」「生の魚を食べるなんて、野蛮だ!」と。で、翌日、学校へ行ったら、私のあだなは「ドルフィン」になっていました。
西岡 えっ? ドルフィン?
松田 ええ。生の魚を食べるイルカと同じだからです。ショックでしたね。日本の食文化をバカにされたと思いました。毎日、「おいしい、おいしい」と食べているものを「ゲテモノ」扱いされたのですからね。その後にも、2年ほど真剣に付き合っていた彼女から「生の魚を食べるなんておかしい」と言われて、「あぁ、彼女とは結婚できないな」と破局を迎えました(笑)。それで、「日本の食文化の素晴らしさ、寿司やさしみのおいしさを世界に伝えよう!」と米国での寿司チェーン展開を考えるようになりました。「食を通じて、文化の架け橋になろう」と、それが起業を考えた動機です。中学生の時でした。
西岡 高橋さんの起業の動機はどうでしたか?
高橋 私は、わさび屋でして。
松田 ご実家がですか?
高橋 いえ、勤めていた会社が、「金印わさび」という食品メーカーでした。網走で、わさびの育種に取り組んでいました。実は、皆さんが良くご存じの、静岡産や長野産のわさびはとても高価なものです。私は、それら本わさびと同じ辛味成分を持つ代替品のわさびを作っていました。網走で仕事をしていて気がついたのですが、この地区で栽培されている農作物の90%以上は麦、イモ、ビートという政府が価格を決定している作物なのです。網走はとっても寒い地区で、冬期間が長いので作られる作物が限定されているということで、農家はしかたないという風に思っているというか甘えているのです。ここに逆に夏が涼しいという気候をうまく利用して他では栽培できない作物を栽培して付加価値の高い農作物で北海道の農業を活性化しようと考えました。ところが、そういうことを農家に話してみても、「冬は長いし、寒さが厳しい場所で作れるものなんかない」と消極的でした。けれど、冷涼な気候を活かせるイチゴなら根付けから2カ月ほどで収穫できるし、年中収穫できる品種開発の研究もあって、ちゃんと採算が合うビジネスにしようと考えたのです。それと、もう一つ。網走は玉ねぎの産地なのですが、ある時、私が玉ねぎ好きと知った農家から“とっておきの玉ねぎ”をもらったのです。形は悪いのですが、ものすごくおいしいんですね。で、「なぜか?」と聞いたら、「農薬を使ってないからだ」と。つまり、市場で売られている形のいい玉ねぎは農薬漬けなのです。けれど、彼らには消費者のための「商品を作っている」という意識はなくて、「原料を作っている」という感覚だったのです。そこで、極力農薬を使わずにおいしい農作物を作ろう、という理想を追いかけて起業しました。
西岡 起業されてから、ずっと順風満帆だったというわけじゃないですよね、松田さん?
松田 ずっと大変でした。一番大変だったのは、1号店を銀座に出店した時。当初、店の損益分岐点は500万円ほどだったのですが、実際には立ち上げ時は350万円ほどしかありませんでした。最初の数カ月間は、赤字の連続でしんどかったですね。
西岡 で、どうしたのですか?
松田 いろいろやりましたよ。もともと私は、銀行の渉外担当で新規開拓の営業を6年間やっていましたからね。飛び込み営業は、得意でした。それで、チラシを作って配ることにしたのですが、資金繰りのためにパソコンも売り払っていましたから、手書きのチラシをコンビニでコピーするわけですが、コピー代は1枚10円です、50枚で500円。コーヒー1杯の儲けは10円ほどですから、50枚配ったら、絶対に50人の人に店へ来てもらわなくては採算が取れません。しかも、リピーターになりうる人たちに配らないと効果がありませんから、周辺の企業を、「ぜひ、いらしてください」と直接チラシをお渡しして回りました。スペシャルティコーヒーなんて、まだ誰も知らない頃でしたし。
西岡 その当時、ほかの店ではコーヒー1杯どれくらいで売られていましたか?
松田 景気の悪い頃でしたからね。店によりますが、プロントやドトールで160~180円のコーヒーが一番売れていた時代に、タリーズは300円で売っていました。
西岡 チラシを渡した人たちは来てくれましたか?
松田 100枚ポストに配って1人来てくれたらいいほうでしょうね。そこをあえて直接手渡しして、相手の目を見てコーヒーについて熱く語ることで、100枚で10~15人は来てくれたと思います。かなりの確率です。
西岡 そのほかにも、歌舞伎座から出てくる女性たちが店に来てくれるように、自分で“サクラ”をしたと聞きましたが。
松田 ええ。いろんな“サクラ”をしました(笑)。銀座に店を出したと言っても、銀座の中でも一番古い雑居ビルで、間口は3.5メートルほどしかありませんでしたから、なかなか歩行者の目には留まらないんです。ですから、店の反対側にあった歌舞伎座前の交差点に立って、信号待ちをするわけです。で、信号が青になったら、歌舞伎座から出てきた人たちの先頭をきって歩いて、昭和通りを渡って店の前に来たら、「なんだこれ! こんなところにコーヒーショップがあるぞ!」と大きな声を出して店に入るんです。すると、私の後ろを歩いていた女性たちがズラズラと、私につられて店に入ってくる。そんなことを何回も繰り返していました。夏場は、アイスコーヒーの入ったプラスチックのカップを持って歩きました。カップに印刷してあるロゴマークを人に見せるようにして、汗だくになりながら店の宣伝をしました。ところが、ある時、私の隣を横切ったカップルが、透明のカップを見て「ああ、スターバックスに行こう!」と急ぎ足で行きました。いやぁ、ショックでしたね。カップについているロゴマークなんか、誰も見ていないことに気づきました。それで今度は、ストローを“緑”にして、店の存在を認知してもらおうとしたのです。ところが、それから半年もしないうちに、スターバックスが同じことをやり始めたのです。”緑のストロー”です。商売のためなら小さな店のマネでもする。「スゴイ」と思いましたね。たった1店舗しかないタリーズの後を追って、彼らは全店のストローを緑に変えたのですから。すごい決断力です。今では、スターバックスUSAも、コンビニも、緑のストローを使っていますよ。
西岡 へぇ、緑のストローはタリーズが最初だったんですか? 皆さん、スターバックスへ行ったら、友だちに「緑のストローは、タリーズが始めたんだよ」と教えてあげましょう(笑)。
松田 それはいいですねぇ。皆さんに広告宣伝費をお支払いしますよ(笑)。西岡 ところで、高橋さんの「大変なこと」は何でしたか?
高橋 農業組合は変わりましたね。昔は、農家があって、農協があって、ホクレンがあって。20年くらい前は、そういう図式を崩すなんて、絶対に考えられませんでしたから。そんなことをしようもんなら、徹底して締め付けられます。例えば、うちがテレビの番組に取り上げられたとするでしょう。そこで使われている資材が映ったら、「ホーブが使っているあの資材は、まさかお前のところのものじゃないよな」と文句を言う人が現れる。その瞬間、当の資材屋はうちから引き上げちゃうんですよ。だから、うちは北海道に会社を興したものの、資材は全て道外から仕入れました。それから、天候リスクとそのリスクヘッジをどうするか、という問題。特に最近は、平均気温が当てにならなくなりましたから。とても暑い年があると思えば、次の年は冷夏だったりしてね。我々は、仕入れた農産物を売買している会社とは違います。実際に農業をしているわけですからね。天候リスクが一番怖いのです。もう1つ。今、うちで大きな問題になっているのが、技術の伝承です。つまり、イチゴというのは、年に1回しか収穫できないわけですから、いくら「10年やってきた」と言っても、たかが10回のことです。そのうち天候リスクで3回くらいは失敗する。場合によっては、倒産しかかることだってあるわけです。まさに今、私たちはそうした学習効果を蓄積してリスクヘッジしていくための勉強をしている最中ということになります。
西岡 国産イチゴの端境期となる夏秋期に収穫・出荷できることが、余所にない“強み”ですね。もちろん、その時期の市場には輸入イチゴも出回りますが、ホーブのイチゴは10パーセント以上のシェアを占めていると言うことですね。けれど、売れすぎて、えらい目にあったことがあると聞きましたが。
高橋 セブンイレブンさんが「カット野菜」から「カットフルーツ」という考えをお持ちでした。そうした中でイチゴを使った商品の開発に力を入れていただき、その中で洋菓子の定番であるショートケーキを夏に限定販売することになりました。「どのくらい作ったらいいのか?」と聞いたら、「ケーキのサイズを工夫するから、1個当たり2粒欲しい」と。1粒をケーキの上に乗せて、1粒をカットしてスポンジの間に挟むというふうです。それで昨年の6月から、全国11000店舗以上のセブンイレブンで売られるケーキ用イチゴを毎日8万8000粒、出荷することになりました。けれど、セブンイレブンのような繁盛している大手は、すぐに新しい商品が企画されますからね。「どうせ秋頃には、なくなっちゃうだろう」と思っていたんですよ。ところが、向こうは全く止める気配がない。そのうち、こちらがギブアップしてしまって(笑)。9月に入ってすぐ、「4日だけ休ませてほしい。2度と休みませんから」とお願いしました。なのに、その後でまた1週間も休んでしまった。さすがに、この時ばかりは「断られてもしょうがない」と覚悟しました。ところが、実によく売れたんですね。セブンイレブンから、「なんとか頑張ってくれ」と。その時、わかったことですが、コンビニで売られているケーキは男性向けなんですね。「弁当を買ったついでに、ちょっと甘いものでも買って帰ろうか」というサラリーマン向けなのです。もともと甘いもの好きの女性は、有名店に行きますから。ということで、先方からは「もっとアイテムを増やしたい」と言われています(笑)。
西岡 松田さんは、3カ月も赤字が続いたのに、よく耐えられましたね。何か支えてくれたのですか?
松田 2つあります。1つは、やめるわけにはいかない崖っぷちに立っていたことです。今でも、経営判断を迷った時は、あえて自分を崖っぷちに立たせるようにしています。上場を廃止する時も、周りからは「なぜ株価も上がっているのに、廃止するのか?」と廃止を留まるように言われましたが、私は「今の段階で上場を続けても、マイナスのほうが多い」と判断したのです。それで相当な借金をして、「やらなくちゃいけない」、「どうしようもない」というところまで自分を追い込みました。もう1つは、もともと自分が持っていた目的と目標を達成するためです。私には、「なぜ、この仕事を始めたのか」という目的が明確にありましたから、途中で「やめてしまおう」と思ったことはありません。
西岡 「人はこの世に生まれた時から、使命を持っている」というのが松田さんの信念ですね?
松田 ええ。私は、幼い頃から使命感をもっていたように思います。よく『シートン動物記』(アーネスト・T.シートン著)を読んでは、“生”と“死”が向かい合っていることを痛感し、「自分も頑張らなくちゃいけないんだ」と言い聞かせていました。それから、弟と母を早く亡くして、残された自分に対する使命感がますます強くなった、ということもあります。ところが、最近の若い人には、そのあたりのことを理解してもらえないことが多いですね。そこで、彼らには「この仕事は自分しかできないんだ、と大いなる勘違いをしろ!」と言っています。そもそも、「日本の食文化を世界に広めるのは、自分しかできない」なんてこと自体、大きな勘違いですよね。けれど、「自分しかできないんだ」と思い続けているうちに、いつの間にかそれが使命感に変わっていたということです。
西岡 高橋さんは、セブンイレブンでの失敗のときに、なぜそんなに頑張れたのですか?
高橋 なぜって、相手の逆鱗に触れたら怖いからですよ(笑)。実は、別のコンビニでも同じようなことは有ります。セブンイレブンのケーキは、あんなに小さくて380円もしますからね。価値の高い仕事はやり甲斐があります。だから、「安くします」と言うのはダメ。「もっと、いいイチゴを出します」と言って、OKをもらうわけです。
西岡 仕事をやめようと思ったことはないのですか?
高橋 「金印わさび」にいた時に、バイオテクノロジーをやっていたのですが、その頃の北海道知事が『バイオアイランド』という大きなテーマを作ってバイオのブームが起こりました。私は各地で講演会に引っ張り出されてね。その当時、「金印わさび」を辞めて、いきなり会社を作ったわけです。すると、「あんな仕事、絶対にうまくいくわけがない」と陰では言われるんですよ。そうすると、「あいつだけには言われたくない。くそっ!」って思うわけですよ。(笑い)
西岡 そうか、頑張れた支えは反発心ですかぁ。ところで、今日ここにお集まりいただいた方の中にも、「起業することを諦めようかなぁ」と悩んでいる人がいるかもしれません。そういう方へお二人からメッセージを送ってください。
松田 そういう時は、走りながら考えたほうがいいんじゃないですか? 立ち止まって「どうしようか」と悩んでいる時は、とかく失敗することとか、悪いことばかり考えてしまいますからね。
西岡 松田さんは、「悩んで眠れない」なんてことはないんですか?
松田 ないですね。もともと睡眠時間は少ないほうで、4時間ほどしか眠りませんが。
西岡 夜は、バタンキュー?
松田 そうですね。嫌なことがあっても、「どうにでもなれ!」という感じ。
西岡 高橋さんはどうですか?高橋 私は、眠れないほうですね。ある晩、家内が目を覚またら、私が会社の金庫から保険証を出してジッと見ていたと。彼女はてっきり、私が自殺でもしてしまうんじゃないかと思ったらしいですよ(笑)。自分では意識がなかったのですが、悩む方ですね。それにしても、「やりたいことは、やってみるしかない」と思いますね。やってみて、失敗して、学習して、また走る、の繰り返し。あまり深刻に考え過ぎないほうがいいのではありませんか?
西岡 一度決めたら、やればいいじゃないかと。
高橋 正しいこと、世の中に役に立つことをやっていれば、必ず誰かが助けてくれる、という信念があります。何度か失敗して、会社を潰しかかったことがありましたが、必ず誰かが助けてくれました。それは、私のやっている仕事が、世の中に必要なことなんだろうと。
松田 走りながら考えろと言いましたが、しかし、「ダメになったら、潰してしまえばいい」という考えだけは、絶対にしないでほしいですね。なぜなら、1回失敗すると、次に成功させるのは難しくなります。だからスタートアップしたら、なんとしてでも成功するまでやり切ってください。
西岡 さて、ここからは会場の皆さんに質問してもらいましょう。お二人に「ぜひ聞きたい」ということはありませんか?参加者 お二人の“野望”というか、どんなビジョンで最終ゴールを目指しているか教えてください。
松田 私は、「食を通じて世界の文化の架け橋となること」を使命としてやっていますが、ぜひ日本初のインターナショナルチェーンを目指したいですね。例えば、吉野家ディー・アンド・シーは、国内に100店舗ほどしかなかった頃すでに、「日本の牛丼を世界に広めよう」と、米国デンバーへの出店を果たしました。実は、私も緑茶専門のカフェである『クーツグリーンティー』をいつアメリカへ持っていこうか悩んでいたことがあるのですが、その時に安部社長から言われたのは、「やろうと思った時にやれ。それが5店舗だろうが、10店舗だろうが関係ない」という言葉でした。近く、クーツグリーンティーもシアトルに出店しますが、マクドナルドは全世界に4万店舗、そのうち日本に3800店舗を展開しています。そういうレベルを狙いたいですね。
西岡 高橋さんはどうですか?
高橋 希望はいっぱいあります。米もやりたいです。流通にしろ、営業にしろ、農産物に関わることでやれることはたくさんあります。だから面白い。けれど、まだまだ法律上の問題もたくさんあります。農業の流通では中間マージンを取る人が大勢いるんですよ。あれがなくなったら、ものスゴイ改革でしょうね。イチゴだけとっても2000億円市場といわれますが、それは農林水産省が発表している市場流通額にすぎません。改革すべきことだらけです。
西岡 ちなみに高橋さんは、業務用イチゴ卸の大手「西村」を子会社化して、苗の生産・販売からイチゴの仕入れ・販売までをトータルに行うワンストップショッピングを成功させていらっしゃいます。ほかに質問されたい方はいらっしゃいませんか?
参加者 人の育て方で苦労されたことはありませんか?
高橋 一番頭の痛い質問ですね。実は、私は人を育てるのがヘタなんです。人に教えるなんて、おこがましくて、考えただけでも気分が悪くなります。これまで、“少数先鋭”なんてカッコいいことを言っていましたけれど、正直、それでは追いつかなくなっていますからね。今年は12名くらいの社員を増やしたのですが、これは40名ほどの当社にしてみれば大変なことでして、何とか自らが考えて手を上げてくれる人をつくろうと思っています。
松田 自分より優秀な人に来ていただきたいと思っています。ただ、経営理念や事業に向ける情熱だけは、自分が彼らに勝っていなくてはいけない。そして、どんなに優秀でも、経営理念や事業に向ける情熱に共鳴してくれない人は、すぐに辞めていってしまうと思っています。同じ船に乗って、一緒に懸命に漕いでいってくれる人を見つけるのが、一番難しい。永遠のテーマですね。そのためにも、社員とは常に面と向かい合って、自分が考えていることを直接話すことが大切なんだろう、と思っています。インターネットなどのコミュニケーションツールに頼っていては、そうした思いを伝えづらい。ですから、自ら社員のところへ出向いて行って、店のマネージャーやアルバイトフェローに話しかけて、自分の気持ちを伝えるようにしています。忙しくて大変ですが、楽しいですよ。
西岡 ところで、今日は会場に「EOY JAPAN 2004ファイナリスト」の坂本さん(ブックオフコーポレーション代表取締役)がいらしています。そこで、人を育てる名人でもある坂本さんにも、お話をうかがいましょう。
坂本 うちは、“古本屋”という人が介在して成り立つビジネスモデルなので、社員とのコミュニケーションを多くとるようにしています。私の今年度の目標は、1000人の従業員と夕食をとること。次に“連結売上”、その次に“経常利益”です。ただ、夕食といっても、一緒に酒を飲みながら雑談に終わるのではなく、「自分の夢と成長。そして理念を持ってその目標に近づくためにはどうしたらいいか」といった中身の濃い話し合いができる場にしたいと思っています。当社では、その年に一番努力してくれた店長をバルセロナに連れていく、というイベントがあるのですが、人材育成にかける費用は、“費用”ではなく、“投資”と考えています。そして、そうした取り組みを続けることで、互いの心がつながり、必ずその成果が表れると思っています。
西岡 坂本さんありがとうございました。そして、松田さん、高橋さん、ありがとうございました。本日のパネルでの出会いがきっかけとなってタリーズ・コーヒーの店頭にホーブのイチゴが並ぶといいですね。会場のみなさま、ありがとうございました。次回、このリアル・コミュニティを開催する時には、「ぜひ、パネラーの席に座りたい」という方はご連絡をお待ちしております。

2006年4月10日月曜日

プレゼンテーションの極意を教えます

プレゼンテーションの極意とは「最初にBangを入れること!」である。

ベンチャーを支援することを最重要の仕事とする当社MICは、しばしば、ベンチャー経営者にプレゼンテーションをする機会を提供する。相手は大企業の開発担当であったり、マーケティング担当であったりするし、コラボの出来そうな異業種のベンチャー経営者同士であったり、いろいろの場面がある。そんなときに、まるで「プレゼンはバックグランドの説明から順序正しく結論へ」との信念を持っているかのように、旧来の日本の大企業型プレゼンをする人が居る。スピードとプッシュが命のベンチャー経営者の方にも結構多いのが実情なのだ。彼らは、会社概要から始まって、業界分析とか過去の技術概要とか、面白くもない内容を退屈な資料を使ってグジグジ続ける。まるで、その退屈な説明で聴衆をしっかい眠りにつかせようとするかのように。もちろん、訴えたい重要なポイントは用意されている。用意されているが、そのページに来たときには聴衆はコックリコックリか、それでなくとも聞く気をほとんど無くしてしまっている。これでは折角のプレゼンの効果は半減以下である。

プレゼンの極意は、最初に「当社はこんなことが出来ます!」とデモを見せるなりして「えっ! 凄いなー! 本当かなー? よし、じゃ聴こう」と聴衆を引きつけることである。

2006年4月7日金曜日

EOY-J 2006のキックオフ・イベントが盛況でした

イベントに集まって頂いたみなさん、ありがとうございました。楽しかったですねー!


第一部のパネルでのホーブの高橋さんの「セブンイレブンへのイチゴ出荷の裏話」は面白かったですね。「小売りの神様」鈴木敏文会長に、1店当たりイチゴを2個と限定しながら注文を取った高橋さんは農学部出身のイチゴ博士であるだけではなく、辣腕の商売人ですね。それにしても1万店以上のお店に毎日届かなければならないのですから、想像を絶する生産管理能力です。
それをまた、失敗無しでは面白くないのですが、出荷できない失敗を2回もやったというのがご愛敬で会場は大笑いでしたね。高橋巌さんて、凄ーくいい人ですね! 雪の北海道からイベントのために駆け付けて頂きました。ありがとうございます。

一方のタリーズコーヒーの松田公太さん、38歳、真っ白のカッターにノーネクタイ、カッコよかったですよ! ボクの好きなカッコです。悪戦苦闘してタリーズコーヒーを日本に持ってきて、一等地の銀座に店を構えたものの3ヶ月赤字の連続。一計を案じて、近くの歌舞伎座から出てくる中高年女性群の先頭に交差点で混じり込んで、自店の前に来ると、「へー、こんなところに美味しそうなコーヒー店がある」とか何とか言って店に入ると、付いてきた見ず知らずの女性の一軍がぞろぞろ店に入って来た! という話は傑作でした。カッコいい松田さんがこんなサクラを自演していたのですね。松田公太さんのガンバリズムの原点には、亡くなられたお母さんと弟さんに「見ていてくれ」という思いがあるとご著書から知りました。ステキな人です。
お二人によるパネルについては後日、詳細のブログを作ります。

イベントには昨年日本代表の坂本孝さん、2回目日本代表の石川光久さんを始め本当に多くの過去受賞者の方々に集まって頂けました。サポーターのみなさまも熱気に溢れていて、みなさんが「今日は良かったねー!」と言い合っておられました。

「この分だと、EOY-Jは日本の起業家たちのコミュニティとして大きな貢献が出来るようになるかも知れない」と感じました。過去受賞者のみなさん、もっともっとEOY-Jに集まって下さい。ファイナリストのみなさま、みなさまのブログが開設できるようにしてお待ちしています。是非ご協力下さい。
また、起業家の顕彰はそのタイミングが難しく、ちょっとタイミングが早すぎたためにセミファイナルだったとか、ファイナルにはなったけど日本代表を逃したとか、残念な思いをした方がたくさん居られることでしょう。だからこそ、EOY-Jは日本代表になるまで何度でも再挑戦が可能です。ガンガン再挑戦頂くこともお待ちしています。

これまでEOY-Jに参加なさっていない起業家の方たちにもどんどん参加して頂けるよう、みなさま方のネットワークでお誘い下さい。宜しくお願いします。

2006年4月6日木曜日

インド見聞録-2

③インドと言えば仏教の発祥の地である。ところが、実際にインドに行ってみると意外にも仏教の影響が余り見えない。至るところあるのはヒンドゥー教だ。上述のガンジス川の沐浴もそうだし、インドの人たちが最も愛し尊敬し畏怖するのはヒンドゥー教のシバ神とその妻パールバァーテー神、それに父親のシバ神に誤って首を切り落とされ、慌ててゾウの首をすげられたムルガ神で、これらは至る所にまつられている。それもそのはず、インドの宗教を人口比で見ると、ヒンドゥー教83%、イスラム教11%、シク教2%、仏教1%弱となっている。下のスケッチはバラナシから直ぐ近くにあるサルナートの仏教寺院で堂内の壁には日本人画家が戦前に描いた壁画がある。シャカ(釈迦)族の王子ゴーダマシッタルタが菩提樹の木の下で悟りを開く話など、シャカの一生が周囲の壁一面に描かれている。


次のスケッチはサルナートにある考古学博物館の中にある展示物。右の4面のライオン像はインドの国章として札にも印刷されている。館内は写真撮影が禁止なのでスケッチが役に立った。いずれもたったまま5分ほどで描いたもの。


④インドではほとんどの人たちが英語を話す。タクシーの運転手はもちろんのこと、前述の小さなボートの船頭さんもペラペラだ。27歳の船頭さんは家庭が貧しかったためにまったく学校に通っていないというのに英語を流暢に操る。早口の上、seasonをセジョンと発音するなどで日本人には聞き取りにくいかも知れないが、バンバン一生懸命に話す。どこで勉強したのと聞くと、「生きるために小さいときからボートを漕いで生きている。客を取るのに英語が必須なので観光客から英語を聞き学んだ。だからこう言うときが勉強の場です」としゃべるワしゃべるワ。お陰でガンジス川やインドの家庭に関していろんな事を学んだが、間断なくしゃべり続けるので、静かなガンジスの川面で船に揺られてボケーッとする願いが叶わない。と言って折角勉強のためにしゃべっているのをムゲにも出来ないので辛抱して相手になっていたが、これではおしゃべりが留まらない。心を鬼にして、「分かった、分かったからちょっと黙っていてくれ。静かなガンガを最大限に楽しみたいからしゃべらずに静かにして、船の櫨の音が心地良いからゆっくり漕いでいてくれ」と言うとやっと静かになった。「静かに蕩々と流れるガンガと船の櫓の音」は心に染みた。それにしても、我々日本人が中学生から10年間近くも学校で英語を学んでいながら、しゃべれないのは実践経験がないためだ。小学校での英語教育が決まったようだが、幾ら早くから、また幾ら永く学校で勉強しても実践で使わないと習得は適わない。

2006年4月4日火曜日

西岡郁夫の起業家インタビュー 第1回 『飯塚哲哉さん』

ザインエレクトロニクス(株) 代表取締役 飯塚哲哉さんはEOY-JAPAN2001のつまり第1回のEOY-Jの日本代表である。ご略歴は文末にご紹介しました。

―――――― 趣味・幼少の頃 ――――――

西岡 今日は、あまり知られていない飯塚さんのステキな一面を探りに来ました。まず、ご趣味から教えてください。
飯塚 ものづくりですね。いわゆる、日曜大工。庭造りってのもありますが、自宅にテラスをこしらえたり、屋根を張ったりしています。子供の時から、タンスくらいは自分で作っていましたから。


西岡 引き出し付きの? それって簡単には作れないですよね。
飯塚 とにかく長くて大きい板を安く手に入れて、切り出して……。
西岡 設計図から描き始めるんですか?
飯塚 そう、手描きでね。最近では、都心に家を建てたのですが、その時もやりましたよ。もちろん、最終的にはプロの設計士がCADを使って、きちんとした図面に仕上げてくれますが、原案は自分で作りました。タンスと同じです(笑)。要するに、ものづくりが好きなんです。今の商売も小学校4年生の時に真空管ラジオを作って徹夜したのがスタートです。気が付いたら夜が明けていましたね。まさに「無我の境地」。実に快感でした。思えば、最近の人たちはかわいそうですよね。かつての工作少年って、真空管を実際に目にして、手で触れていたじゃないですか?
西岡 今は、ブラックボックスになっていますからね。
飯塚 そうそう。コンデンサーは金属と金属が向き合ってできているなんて、誰でも知っていたでしょう。うっかり手を触れて、ズキンとしたりしてね。ところが、今は中を見ることもできないし、触っても何も感じない。まるでバーチャルの世界ですよね。
西岡 簡単に殺し合うようなテレビゲームと同じ。苦しさも、痛さも知らない。
飯塚 ちなみに、僕はハンダ付けのヤニのニオイが好きでしたね。中学生の時はスピーカーボックスも作りました。僕はせっかちだから木工をやっている時の待ち時間がつらいですね。ニスが乾くのを待ったりする。次のことが早くやりたいのに待たなければならないのはつらいのです。せっかちなのです。
西岡 ベンチャーには、せっかちな面も必要なんじゃないですか?


―――――― 時定数について ――――――

飯塚 社内のブログで、「時定数の違いについて」書いたことがあるんです。たとえば、「ナノ秒の世界の仕事をやっている時には、マイクロ秒の事象も、ミリ秒の事象も同時に起こっているわけですが観測できない」といったような内容です。特に、創業時にそういうことを痛感しましたね。僕たちは、少しでも早く事業を始めたいわけです。つまり、お客さんと少しでも早く契約して、そこから支払いを受けたい。そうすることで、僕らにようやく酸素が回ってきて、呼吸ができるようになるんですよ。けれど、その時定数が大企業と僕たちとでは全く違った。我々は時定数が例えばナノ秒で動いているのに大企業はミリ秒とかで動いているのです。
西岡 なるほど。
飯塚 創業当初のうちのお客さんだった日本の大企業の時定数は早くて半年。僕らのそれは数日ですからね。
西岡 だから最初サムソンと組まれたのですか? 彼らの時定数はどうでしたか?
飯塚 彼らも数カ月の単位でしたから、僕たちにとってはこの時定数の差の克服は大変なことでした。で、どうやってそれをしのいだかというと、その期間を埋められるようにお客さんをたくさん作って、つなぎ合わせることで、なんとか生き延びられるようにしていました。
西岡 そういう場面で、「時定数」なんていう物理用語を使うのは、飯塚さんらしくていいですね(笑)。それにしても、ベンチャーのサイクルと大企業のそれを時定数で計るというのは面白いですよ。いいことを聞きました。

―――――― タイプ(性格)について ――――――

西岡 ところで、飯塚さんは緻密に計算してから行動されるタイプですか?
飯塚 僕は、感覚的で粗っぽい方で、意識して緻密さを追求する努力をしてきました。おふくろからも、よく「大胆さと緻密さの両方を兼ね備えて初めて、価値のある人間になる」と言われていましたから。
西岡 どんな努力で緻密さを磨かれたんですか?
飯塚 大学受験ですよ。もともと学校でテストなんかがあると、サッサと答えを書いて教室を出て行っちゃうタイプだったんですが、勘違いやケアレスミスも多くて。それを受験の時に努力して、直したんですよ。問題をどう解くかにはあまり悩まず、どうミスを出さないかと。
西岡 へぇ。普通の人は嫌がる受験を上手に利用したなんて、面白いですね。
飯塚 そういえば、昨年、大学院時代の先輩が亡くなったんですが、彼はサラブレッドでしたね。お父様とおじい様の二代にわたって東大教授でしたから、僕なんかとは比べ物にならない。友人たちに言わせると、彼は「磨き抜かれたロールスロイス」で、僕は「埃をかぶったダンプカー」らしいですよ(笑)。
西岡 埃をかぶったダンプカー? いやぁ、飯塚さんらしくて実に面白い。
飯塚 先日、韓国の取引先から「50万坪の土地を切り開いているから、ぜひ見に来い」と誘われて見学に行ってきたんです。50万坪(約170万平方メートル)といったら、東大の本郷キャンパスが10個分、東京ドーム球場が35面も入るくらいの規模でしょうか。そこをランドクルーザーに乗って、埃まみれになりながらまだ舗装の終わってない広大な敷地を見て回ったのですが、埃をかぶったダンプカーとしては実に爽快で、感動しましたね。

―――――― 休日の過ごし方について ――――――

西岡 ところで、お休みの日は何をやられているんですか。
飯塚 工作ですね。やっぱり工作です。庭造りも好きですが、最近は、もっと趣味の領域を広げたくて、絵も描き始めましたが、基本的にはものづくりです。家を建てた時に担当してくれた建築家は、「ずいぶんうるさい客だなぁ」と思ったでしょうね。自分でいうのも何だけど、僕は空間認知能力が高いんです。だから、平面に描かれた設計図でも、地図でも、ワッと立体的に認識できる。最近完成した家は、地下室が2階まであって、地上は2階、敷地が高台の肩で傾斜のある敷地で、3次元の想像力が試されます。完成するまでの半年間は、僕にとって最高に楽しい趣味の時間でしたね。

―――――― 血液型 ⇒ 株主について ――――――

飯塚 西岡さんは知性派ですよね。僕なんか、臭いがどうとか、熱いとか、体で感じるタイプですが。
西岡 ボクは知性派ではないでしょうね。むしろ動物的で、知性のかけらもありません(笑)。ただ、ベンチャーの作った事業計画書を極めて論理的にチェックするという能力は衰えていませんけど。ところで飯塚さんの血液型は?
飯塚 A型ですが、血液型なんて気にしないほうですね。
西岡 そうですか? 僕は典型的なO型ですが、A型の人には緻密な方が多いですよね。囲碁の世界でも高段者にはA型の人が多いと言われています。
飯塚 昔のことですが、芸大の坂本龍一氏のクラスメートは全員AB型だとかいう噂を聞いたことがありますが何か因果関係はあるんでしょうかね。
西岡 AB型の人は難しいですよね。
飯塚 ええ確かに難しいですね(笑)。
西岡 なんだ、飯塚さんだって血液型、意識してるじゃないですか? 
飯塚 実は、昨日の株主総会の席で、ある株主の方が「健康のために」と本を一冊プレゼントしてくれたんですが、そこに「ヨーグルトには軽い下痢を起こす作用があるから、あまりよろしくない」と書かれていたんですよ。
西岡 えっ? 僕は毎日、カスピ海ヨーグルトを食べていますよ。
飯塚 僕もヨーグルトは毎日いっぱい食べていますよ。
西岡 それにしても、株主総会で株主が社長の健康を思ってくれるなんて、嬉しいことですよね。
飯塚 そうですね。株主との質疑応答は幾ら永くなってもいいと思っています。今回も40~50分続きましたよ。それも、そのほとんどが応援のためのエールでした。
西岡 飯塚さんの人間力ですね。
飯塚 いつもの事ですが、「配当が少ないとか」言う人もいますが、私に言わせれば「配当と成長は相反するもので、どちらで株主に報いるかは、企業が成長フェーズか成熟期かで異なる。我らはまだまだ成長期の少年企業」です。
西岡 そういう社長の本音の思いをぶつけないとダメですよね。弱みを見せないように上手に乗り切ろうと、社長の本音を出せないで、きれい事の株主総会対策を練るというのは絶対に良くないですね。
飯塚 良くないですね。違法性がないように開催するためにしっかり準備をするのは必要なことだけれど、株主を黙らせるために「臭いところにフタをする」みたいな対策は良くない。そもそも、うちは初めから、拝金主義のようなやり方を否定して展開してきましたから、風通しがいいですね。
西岡 それは飯塚さんの「金で来た人は金で去る。僕は君に金をオファーしない」という言葉からも、よくわかります。

―――――― 「脱藩」 ――――――

西岡 飯塚さんの著書に、「脱藩ベンチャーの挑戦」(PHP研究所総研出版発行)がありますが、「脱藩」というのは実にうまい表現ですね。「スピンオフ」というと、単に「一人で飛び出す」というような印象を受けますが、「脱藩」というと、「藩(会社)の戦略に同意できない人が、自分の志、夢の実現を目指すために藩を飛び出す」という実感がでます。
飯塚 確かに、僕たちには「志」がありました。ところが、「志」があっても、日本では大企業を辞めた者に対して、「何かあったのか」というような目で見ますよね。東芝を卒業して数カ月後に、日米の半導体のシンポジウムがあったのですが、そこで日本人とアメリカ人の対応が全く違ったのには驚きました。東芝の肩書きが消えた僕の名刺を見て、「哲哉、やったね、おめでとう!」と言って、起業したことを一緒に喜んでくれたのがアメリカ人でした。日本人の反応は「どうしたんですか?何かあったんですか?」と聞いてくれるのはいい方で、多くは話題にしないように変な気をつかってくれるのです。
西岡 「そこは、触れちゃいけない」という感じですか?
飯塚 そうです。こちらは、夢を持ってワクワクして起業したというのに、何かまずいことがあって辞めざるを得なかったのか?というような感じでした。それには、傷つきましたねー、ショックでした。
西岡 そーかー、そんな経験をされましたか。
飯塚 僕が、日本半導体ベンチャー協会を設立したのも、そこに起因しているのかもしれませんね。世の中に対して、「創業者こそ選ばれた人であり、アントレプレナーこそエリートなんだ」と声を大にして言いたかった。そう仲間に呼びかける、という意味で「脱藩」なのです。
西岡 僕は、ベンチャーと一緒に大企業を訪問する機会が多いのですが、いつも気になるのはそこに現れる大企業のミドルの連中の覇気のないこと。人数だけは多いのですが、彼らの目はまるで死んだ魚のような目をしているんですよ。絶好のチャンスとベンチャーが技術の説明の話をしてもコックリ、コックリが始まります。一度、堪りかねて「難しい仕事でも5年後には自分の手で成功させるんだ、というサクセス・ストーリーを書くつもりで仕事をしなさい」と注意したことがあります。
飯塚 そういえば僕も、昔のことですがコンサルタント業をしていて、クライアント先の会社を訪ねたことがあるんですが、彼らは大勢で2列に並んで座っているんですよ。大勢参加して頂いて大変嬉しかったのですが、会議が長くなってくると、後ろの人たちがいっせいに船をこぎ始める。確かに、ビジネスの話し合いを大勢でやるのは臨場感を薄め問題ですね。
西岡 何かあった時に自分で責任を取らないで、「皆で決めた事じゃないか」という言い訳をしたいんでしょうね。
飯塚 そういう大企業からはもっともっと世直しのための脱藩者が出ないと行けません。
西岡 世直しのための脱藩。まるで、坂本龍馬のようですね。坂本龍馬は33歳の若さでこの世を去るまでに、新しい日本を実現するためあれだけの仕事をしました。すごい人物ですよね。33歳までにまでにあれだけの仕事をしたのですからね。それにしても昔は若くても大きな仕事をしましたね。僕がシャープに入ったのは25歳の時でしたが、当時の係長は28、9で15人くらいの部下を率いて、立派に自分のグループを切り盛りしていましたからね。ものすごく怖かったし、業務日誌なんか真っ赤にされましたよ。ところが、最近は35、36でも、まだピヨピヨしている。
飯塚 そう、ピヨピヨしていますよね(笑)
西岡 飯塚さんが「平成の坂本龍馬」と言われる理由がわかりますよ。日本人が一番好きな歴史上の人物。ステキな人ですよね。今日は、ありがとうございました。
飯塚 ありがとうございました。

飯塚哲哉さんのProfile
1975年、東京大学大学院電子工学科修了、工学博士。同年より株式会社東芝勤務(1980-81 米国HP社IC研究所駐在。1990-91 東芝半導体技術研究所LSI開発部部長)。1991年、株式会社ザイン・マイクロシステム研究所設立。翌1992年、ザインエレクトロニクス株式会社設立、2001年にJASDAQに上場。2005年は売上218億円、経常利益26億円。2004年 社団法人日本半導体ベンチャー協会を設立して会長就任、現在に至る。

2006年3月30日木曜日

インド見聞録-1

VCの会合があって、インドに行って来た。折角の初めてのインドだったのでいろいろ見てきた。今回はその見聞録である。

① 想像以上に貧富の差が激しい。たとえば、携帯電話のキャリアや機器開発会社、ソフトウェア会社をいくつか訪ねた。これらの会社は財閥系の会社、振興の会社に拘わらず、そのオフィスは正に天国だ。ファーニチャーも高級だし什器も立派で、かつてよく行った、シアトルのマイクロソフトのオフィスを彷彿とさせた。ついでながらインテルのオフィスはCEOから新入社員に至るまで、大部屋をローパティションで区画しただけの粗末なオフィスである(これはこれで立派な見識であるが)。携帯キャリアの一社Hutchの場合は、来客が会議中に携帯電話を充電できるよう、全機種への充電器が備え付けられてあったのも印象深かった。しかし、これらのオフィスを一歩出るとそこは正に究極のスラム街で、狭い、舗装もない凸凹の道路の両側は石を積み上げただけの貧民窟で、ゴミの中から再生のために売れるものを選り分ける人たち、不清潔そうな食べ物屋の回りにたむろする人たち、何故か水溜まりの中に寝そべる犬たち、、、と筆舌に尽くし切れない街の様子であった。

② ガンジス川は美しい大きな川である。ヒンズー教の聖地と知られるバラナシはガンジス川の流域に作られた街で、教徒が教えに従って良き来世を願ってガンジス川で沐浴をする。男性は褌姿、女性はサリー姿で川に入り、水を頭から浴び、ついでにシャボンで頭や衣類を洗濯している人もいる。


2~3kmの流域内の上流側には遺体の焼却場もあり、毎日運び込まれるカラフルな死装束に着飾られた遺体が薪の上に置かれて焼かれている。ざっと見たところ同時に最大3~4体程度が焼かれるようで、1体を償却するのに7時間ほど掛かると言うからざっと一日に数体が焼かれているのだろうか。焼き終わると灰をガンジス川に流して輪廻転生からの解脱を図るという。


こんな事を聞いていたので、ガンジス川はきっとどろどろ汚く濁って流れる小さな川だと想像していたのだ。ところが、実際のガンジス川は川幅も数百メートルはあり、深くて蕩々と流れ、川中なら自分でも飛び込んで泳げそうな美しい川である。考えてみればそれもその筈で、毎年ヒマラヤからの膨大な量の雪解け水が流れる大河なのだ。家内と二人でボートを雇って川に乗り出したが船頭の話では人口250万人の生活排水は下のスケッチの右上にあるピンク色の塔に集めて下流に移し、ガンジス川には流し込んでいないという。

対岸に渡ってスケッチをしたが、若者たちが僕らの下手くそなスケッチを見に集まってくる。スケッチの一つの楽しみはこういう時の会話が楽しめることである。とにかく、ガンジス川は想像以上に素晴らしい川である。今回は以上です。また続きを書きます。